2006年05月20日

ダ・ヴィンチ・コード

ダ・ヴィンチコード

本日、全国一斉ロードショーのダ・ヴィンチコードを観てきました。朝一番だったのですが、すでに立ち見寸前で、感心の高い映画なのだと実感しました。


ストーリー パンフレット引用

始まりは、奇妙な殺人事件だった。ルーブル美術館で発見された、ソニエール館長の他殺体が、レオナルド・ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」を模した形で横たわっていたのだ。しかもそれは、瀕死の重傷を負った身で、自ら作り上げたものだった。さらに不可解な暗号が残されていた。ハーヴァード大学教授のラングドンは、フランス司法警察ファーシュ警部に呼び出され、捜査協力を求められるが、実は彼は第一容疑者でもあった。ソニエールと面会の約束をしていたうえに、暗号の中に彼の名前が記されていたからだ。ソニエールの孫娘で暗号解読官のソフィーが、現場に現れる。ラングドンの無実を知っていた彼女は警部をだまし、ラングドンを連れて逃走する。警察の厳しい追跡をかわしながら、暗号に挑む2人。ダ・ヴィンチが絵画に残した、歴史を揺るがす暗号とは?〜内容に関わるので以下略〜







古い寺院、教会や礼拝堂、そしてルーブル美術館。それらを観られるだけで映画代のいくらかはペイできていると思います。ルーブル美術館のガラスで出来たピラミッドのエントランスは下からライトアップされてすごく綺麗です。僕が行って見たいと思ったのは後半に出てくるロスリン礼拝堂で、いくつもの時代の様々な意思(テンプル騎士団、薔薇十字軍、フリーメーソン等)が彫刻されています。建物は見た感じ小さそうですが、埋もれていた博物館のようで神秘的です。



上下巻のハードカバーを一本の映画にまとめたロン・ハワード監督はすごいと思います。尺の関係上、謎解きの展開が駆け足だった気がします。詳しく知りたくなった人には小説がある、と。

また、同じ理由からストーリーを追うことに主眼が置かれていく為、動のパートと静のパートがきっちり分かれている感じで、そこのところも賛否が分かれるところかと。良く言えば、力を入れて見なければならないところが分かる。悪く言えば読める。



宗教が統治の道具として政治に組み込まれる際に起こる不可避な変容はこのフィクションに止まりません。超越した規範、揺ぎ無い普遍性として取り入れたいものだから、生まれたままの宗教では使えない。調整は当然ある。ルールを作る側が不要になれば削除、必要なら挿入。時が経つにつれ、様々な意思の介入を受け、宗教、に留まらず歴史、文化も変容していく。そのことが歴史に厚みを増すともいえる。ちょうど連なった合わせ鏡の一番奥の姿を覗き込むように、ぼんやりとしか世界は見えない。だから幾つもの解釈が生まれる。しかし、真実に向かおうとする思考こそが面白いのであって解釈の多様性はそれ自体を否定すべきものではない。(だからこそ、その営みを阻害する資料、文献の捏造は大罪といえるのだが。)



この作品を観て宗教に対するいくつかの問いが頭に浮かびました。

その宗教が誰の為のものなのか?

その宗教がどの範囲(神、信仰者、追随する者、それを知らぬすべて)まで救うのか?

それによって生まれる軋轢にはどう対処するのか?

範囲の限定と目的の具体性もしくは、範囲、目的の抽象性(世界が平和でありますように、みたいな)が組織に与える力、性質には関係があるのか?

目的に至る解釈の違いをどれだけ分かり合えるのか?

目的の為にどれだけの行動が許されるのか?

また、それよりも大きな規範(一般的な社会)でその行動の合理性は実証されうるのか?
posted by ねこめ〜わく at 21:39| Comment(4) | TrackBack(2) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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