2006年06月09日

ハーヴェイ・ミルク

ハーヴェイ・ミルク   DVDあり

 ネット上に、この事件の詳細が書かれたサイトがなかったので、映画の詳細を書き起こすことにする。以下、映画のネタバレおよび補足が含まれています。

 ハーヴェイ・ミルクは、1930年5月22日にユダヤ人の中流階級に生まれ、ニューヨーク州ロングアイランド島のウッドメアで育つ。14歳の頃に同性愛を自覚する。大学卒業後は海軍に入隊、その後、ウォール街の証券アナリストになるが、60年代にはブロードウェイで芝居製作の仕事に就く。70年代には反戦デモに参加し、サンフランシスコに転居してからは、カストロ地区で恋人のスコットとカメラ店を経営する。この頃から市民運動を始める。73〜76年にかけて、サンフランシスコ市政執行委員選挙に3度出馬し、そのたびに得票数を増やすものの、全て落選に終わる。

 1975年、サンフランシスコ市の総合的発展と多文化・他民族共生を掲げるジョージ・マスコーニが新市長に就任する。マスコーニはサンクエンティン刑務所(注1)で看守を務める父から、死刑執行が電気イスによってなされていることを知り、残虐刑に反対していた人物。彼は市政執行委員選挙を、市全体ではなく各地区ごとに市政委員を選ぶ地区別選挙とする改正する。カストロ地区にゲイが集まる。


(注1)なお、サンクエンティン刑務所といえば、サンフランシスコ市内のストリートギャング団「クリップス」の創設者であるスタンリー・“トーキー”・ウィリアムズの死刑が執行された刑務所でもある。
Stanley Williams – Wikipedia(英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Stanley_Williams
 ウィリアムズは、1979年のセブンイレブンでのアルバート・オーウェンズ強盗殺人容疑、同年のモーテルでの台湾系移民イェン・ヤン夫妻と娘の強盗殺人容疑で、2年後に死刑判決を受ける。その後、スタンリーは24年間の囚人生活において、自身の経験を元に非暴力を訴え、反ギャング運動を展開。「クリップス」創設を謝罪、児童書9冊を執筆する。これらの社会的貢献によってノーベル平和賞に4回、同文学賞に3回ノミネートされている。アノールド・シュワルツェネッガー市長に対して死刑執行停止の嘆願が幾つも出され、その判断に注目が集まるものの、温情的措置は認められず、2005年12月13日に死刑が執行される。


 ハーヴェイ・ミルクは1977年にカストロ地区から4度目の出馬をし、ゲイでは初めての市政執行委員になる。この地区別選挙では、ミルクの他にも女権擁護運動家や中国系アメリカ人、黒人女性、そしてダン・ホワイト(ダニエル・ジェームズ・ホワイト)も当選した。ホワイトは収入の安定している消防署を辞めて出馬した、保守的な価値観を持った31歳の白人で、犯罪や教育、税金などの問題に熱心で、地区のスポーツ大会を企画した。

 ミルクは、黒人、黄色人種、同性愛者、障害者、その他のマイノリティーの団結を訴え、開発制限、学校教育、交通機関、老人福祉などの問題で市政改革を訴えた。ペットの糞の不始末に罰金を課す条例、英語の書けない移民の為に投票器の設置を義務付ける条例、ゲイであることをカミングアウトしたことで職を奪われないための条例など、具体的な施策も打ち出した。

 ゲイ権利法案は、ホワイトを除く11人の市政執行委員の賛成で成立。祝賀のゲイ・パレードが開かれ、全米から40万人の同性愛者やその友人が集まった。ホワイトはパレードで裸になる同性愛者を批判、全米でも同様の反対運動が起こり、78年にはゲイ権利法は全米で撤回されることになった。

 カリフォルニア州では、同性愛者の教師を教育現場から追放する提案6号が州民投票にかけられることになり、同性愛者と異性愛者の議論が活発化した。当初は賛成派が多数であったが、投票一ヶ月前には反対派が僅差にまで詰め寄った。提案6号が人権侵害に当たるとして反対する人の中には、ロナルド・レーガン前知事やダン・ホワイトの名前もあった。1978年11月7日、提案6号は59対41の割合で否決された。


 4日後、支援者に何の相談をすることもなく、ホワイトは執行委員を辞職した。その後、ホワイトは支援者と話し合い、市政委員への復帰へと考えを改めたが、辞表は既に受理された後で撤回不可能となっていた。新委員の任命はマスコーニ市長の裁量であり、彼は支持者への配慮が欠けていたホワイトを批判した。選挙区住民にとって如何なる判断が最良かが、市長の一番の関心であった。ミルクはホワイトの再任に猛反対した。ホワイトとその支援者は、市長に対して、市政委員復帰の嘆願を行った。

 1978年11月18日、南米のガイアナ協同共和国西部で、ジム・ウォレン・ジョーンズが主催するアメリカ発祥のキリスト教系カルト集団「人民寺院」による集団自殺が起こった(注2)。約900人に及ぶ自殺者の多くがサンフランシスコ市民だったため、市民の関心はホワイトの嘆願から、この事件へと移っていった。


(注2)人民寺院とジム・ウォレン・ジョーンズの人生については以下を参照のこと。
http://www.nazoo.org/cult/jimjones.htm
http://www.nazoo.org/cult/jimjones2.htm


 1978年11月27日、サンフランシスコ市長ジョージ・マスコーニと市政執行委員ハーヴェイ・ミルクが市庁舎内で暗殺された。容疑者はダン・ホワイト。ホワイトの後任の市政執行委員が発表された日だった。

 10時45分、再任されないと知ったホワイトは市長室へ行き、短い口論の後に拳銃でマスコーニを撃った。倒れたマスコーニの頭に、さらに2発撃ち込んだ。弾を詰め直して、市庁舎の反対側にあるミルクの部屋に行き、ミルクを撃った。倒れたミルクに3発撃ち込み、さらに屈み込んで頭部に1発撃った。11時10分。

 夜、キャンドルを持った市民による長蛇の行進が大通りを埋めた。カストロ地区から市庁舎まで、ハーヴェイ・ミルクとジョージ・マスコーニの追悼で埋められた。


 取調べにおいて、ミルクとマスコーニの殺害理由は明らかにならなかった。隣人達の証言では、ホワイトは模範的青年で、家庭的で、教会にも熱心に通っていたとのことだった。5ヶ月後、ダン・ホワイト裁判が開廷した。しかし、陪審員はゲイやマイノリティーからは選ばれなかった。

 検察は、ミルクとマスコーニの殺害動機は復讐であるとし、殺人の立証を行った。弁護人は被疑事実を冒頭陳述で認めた。だが、検察が証拠として提出した自白テープは裏目に出た。ホワイトは、仕事上の金銭問題や家族と過ごす時間がないことから、苦しみ、プレッシャーを感じていた。息子はベビーシッター任せ、妻のメリー・アンは働き過ぎ、市長は結論を出す前に電話をすると言ったのに電話してこない。市長に再任を求めに行くも、その意思がないことを聞き、カッとなって銃を撃った。次に、ハーヴェイ・ミルクのことを思い出し、ミルクが再任されないことを知っていて、残念だと言いたげにニヤニヤしていたのを見て、カッとなって銃を撃った。ホワイトはすすり泣きながら語った。それを聴いて、陪審員はホワイトに同情して、泣いた。

 死刑判決が下るには殺人の故意を立証しなければならず、回避するためにはその不在を立証しなければならない。検察側は、ホワイトの拳銃と10個の予備弾の所持、探知機の付いていない裏窓からの市庁舎への侵入、を殺意と計画性の証拠とした。一方、弁護側は、裏窓からの侵入はよくある入り方で、拳銃は護身用で、しかも他の執行委員も所持していると主張、予備弾の所持は彼が元警官で、弾を再装填したのは本能的にそうしたのだろう、と説明した。また、ホワイトは政治の腐敗を嫌う理想主義者で、市の荒廃を憂えていた、と説明された。

 さらに弁護人は「良い環境にいる善良な人は冷酷に人を殺さない」と陪審員に語った。弁護側証人でホワイトの妻メリー・アンは、夫がプレッシャーに潰されていたと証言し、弁護側の精神分析医は、被告人がジャンクフードの摂り過ぎで過度の落ち込み状態にあったと証言した。弁護人は、犯行は一時の感情に駆られてのものだと主張した。

 裁判は11日で結審し、評決は故殺について有罪。銃使用に対して刑が加算されても懲役4〜12年で、仮釈放の可能性もあるという内容。その夜、市庁舎前で大規模な抗議デモが起こり、一部は暴徒化して警官隊と衝突した。

 1984年1月7日、ダン・ホワイトは出所した。5年半の服役期間中、精神科の治療はなかったという。

 1985年10月21日、ダン・ホワイト、車中でガス自殺。



 映画の中で、ホワイトは理想主義者と解説されている。彼には議会での話し合いが妥協と映ったのだろう。議会で自身の主張が通らないのみならず、消防署を退職して市政執行委員に当選したことで生活レベルの維持が困難になったこと、多忙で家庭との両立が難しくなり彼の理想の家庭生活と乖離していったこと、などが彼を追い詰めたのだろう。

 しかし、いずれにしても、自身に投票した支援者と協議することなく、選挙民に説明することなく辞職することは、公人としての意識の低さを示している。そのことは、直後に支援者に説得されて委員復帰に考えを改める点にも表れている。公人としての出処進退の決定が軽率になされている。既に受理された辞表が嘆願によって覆ると期待していたこと、再任要求の嘆願が叶わないと知ると凶行へ走ること、など身勝手さが目に余る。

 マイノリティーの抗議デモが一部暴徒化するシーンがあり、それがまた偏見を助長させる結果になったのかもしない。おそらく、ミルクやマスコーニも暴動は望んでいないことだろう。しかし、二人が殺害された時にはデモ行進のみで暴動は起こらなかったことを考えると、この暴動はダン・ホワイト裁判の不当性が引き金になったと見るべきだろう。暴動が正当化される訳ではないが、不当な裁判に対して市民の側だけに遵法精神を求めるのも酷であり、この裁判が社会に与えた影響は大きい。

 一つ気になることがある。この映画は公開されたのは、丁度ダン・ホワイトが釈放された年であり、彼がガス自殺する一年前のことである。製作者側は釈放時期に合わせて映画を撮影したのかもしれない。製作:ロバート・エプスタイン&リチャード・シュミーセン。

 州側はホワイトへの報復を考慮して、ロサンゼルス市へと移送するが、ホワイトは市長の決定を無視して、サンフランシスコ市の自宅へ帰った。

Dan White - Wikipedia(英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Dan_White
posted by ねこめ〜わく at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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