>Kusukusuさんへ
『出草之歌』に関するコメントありがとうございます。書いているうちに長文になりましたので、コメントではなく本文で返事をさせて頂きます。
「左寄り」と表明されてしまうと少し戸惑うのですが、先の『出草之歌』についての記事はそもそも右寄りだから書いたものではありません。僕が右寄りか左寄りかを判断されるなら先の記事と共に『ハーヴェイ・ミルク』についての記事も読んで頂けると幸いです。
また、先の記事は映画『出草之歌』を批判したくて書いたものでもありません。そのことは、冒頭の「映画の内容についてはともかく」との記述やタイトルが他の記事とは異なり映画名になっていないこと、すなわち『出草之歌』となっていないこと、さらには属するカテゴリーが映画カテゴリーではないことからも分かると思います。先の記事をUPした5月23日の時点では、『出草之歌』が公開されていないので批判のしようがありません(東京の6月3日が初上映)。以上を前提に書きます。
先ず、前回は、霧社事件と台湾人戦没者の靖国神社合祀反対運動という、高砂族という点以外には繋がりを見出せない事柄について、民族音楽学者である故・小泉文夫氏の『首狩り族は得てして音楽も優れている』という言葉を本来の文脈とは異なる引用の仕方(リアル首チョンパ映画という表記)で接合することで、自己の主張に合う一連の流れとして見せている映画秘宝・田野辺尚人編集長を批判しています。その際、高金素梅氏が高砂族を代表する存在であるのかという点に疑義を示しましたが、これも田野辺氏の記事が殆ど何のフォローもなく既成事実として述べている点に対してです。それがこの記事の全てです。
次に、高金素梅氏が中国寄りか否かについてKusukusuさんのTB先には「同時に戦後の漢民族による支配にも批判的なのであり」と書いていますが、「戦後の漢民族」というのは中国共産党ではなく、蒋介石率いる国民党を指すのではありませんか?台湾独立を掲げる民進党の前党首・李登輝氏は親日家で有名です。高金素梅氏が、日本にも戦後の漢民族による支配にも批判的と言われても、それは日本・民進党・国民党に対して批判的なのであって、中国共産党に批判的なのかは不明です。
映画を観て、先ず思ったのは、首狩りの歌が新曲だったこと。その曲自体は語り継がれたものではなかった点で、故・小泉文夫氏の研究していた首狩族と音楽の関係とは異質ではないかと感じました。それから、高金素梅氏は癌を患ったことを二度ほど告白していますが、それと立法委員との活動に何の関係があるのか、この辺りに少数者の甘えを感じました。
それから、台湾原住民族を支配してきた国家であるオランダ・スペイン・清朝・大日本帝国・中華民国の国旗を、原住民族を表す蛇が貫いている図を、高金素梅氏が紹介するシーンがあります。特に大日本帝国の支配が過酷であったとも言っていました。ここに中国共産党が入っていないのは、台湾原住民族を現に支配していないので当然ではありますが、清朝は満州族の王朝ですし、戦後の漢民族が国民党と中華民国を指すことは国旗から明らかであり、次のことと合わせて考えれば興味深いです。
それは、原住民族部落工作隊の綱領に「日米の植民地主義に抵抗する」という一文が入っていたことです。何故、台湾原住民族の土地を支配していない米国が挙がっているのでしょうか。連合国軍が憎いのであれば、米英蘭なども批判すべきですが、そんなことはない。台湾大地震後に結成された団体の綱領に「日米の植民地主義への抵抗」と書かれても、具体的にどういう意味なのか。反戦的な意味合いから、米国のベトナム戦争やイラク戦争を非難するのであれば、中華人民共和国によるチベットやウイグルへの侵略、中越戦争もまた覇権主義という観点からは非難に値します。が、ここでも中国共産党の名は一切出てきません。
この点に、本映画のメッセージが隠れていると思いませんか?日本・米国・台湾に共通するのは何でしょうか。中華人民共和国、中国共産党との緊張関係ではありませんか?この映画には何が描かれていて、何が描かれていないのかを考えれば、自ずとある国家が浮かび上がってくると思います。そう考えると「良識ある漢族」という言葉も味わい深いものがあります。
「自分達の民族の自治区をつくる」という点について。タイヤル族の人口は8万6000人と言われています。高砂族全体では40万人と言われています。この内、高金素梅氏が代表するのは何人でしょうか。立法委員に立候補した際の経緯や高砂義勇隊慰霊碑の撤去活動に積極的な件と合わせて、この人物が高砂族を代表できる存在なのかどうか、中国と台湾が独立で揉めているのに台湾内で自治を求めることが本省人や他のタイヤル族にとっても妥当なことなのかも含めて、検討されたでしょうか。
あとは、個人的な幾つかの感想を。映画を観るまでは特に映画自体には好悪の感情はありませんでした。が、特に二つのシーンが残念でした。一つ目は、靖国神社の関係者に詰め寄るシーン。少数者の権利を鈍感な多数者に伝える際には、時に怒号や暴力が生じることもありますし、それをもって少数者だけの責めにするのは不公平な部分もありますが、あのシーンでの怒号は少数者の態度というよりヤクザそのものでした。
そして、そのシーンで高金素梅氏側の人間が「神道はクソだ」と連呼し出すと、何故か本映画の主催者側の人間が、数人、同意するように笑い出しました。その会場の入り口で「平和護憲」と「教育基本法改悪反対」のチラシも貰いましたが、これが平和を愛する方々の姿なのでしょうか。自身に大切にしているものがあるのなら、他人にも大切がするものがあることを認めるべきでしょう。裁判所前で「通行の邪魔だ」とおっさんに絡まれるシーンも、確かに通行の邪魔でした。自らの正しさを示したいという理由であれ、手順の正しさを踏まえなくては周囲は認めてくれません。ここにも甘えを感じました。
二つ目は、米国の国連ビル前でのデモ行進のシーン。「KOIZUMI GO TO HELL」という叫びは、特に小泉首相に思い入れはないですが、不快でした。彼らの「靖国神社への高砂族合祀反対」の主張が、どこをどう間違えば「地獄へ行け」にまで発展するのか。「高砂義勇隊は皇民化教育で二度殺された」と主張していた高金素梅氏の主張らしからぬ行動だと感じました。あの集団が国連ビル前で抗議するための資金や訴訟費用は一体どこから出ているのかも気になりました。「良識ある漢族」が支えているのでしょうか。
まとめ。何故か唐突に米国批判が出てくる。現代のもう一つの覇権主義国家である中華人民共和国、中国共産党の名が一切出てこない。中国共産党と時に緊張関係に立つ国家ばかりが批判されている。社会主義を賛美しているにもかかわらず、台湾の隣にある中華人民共和国における社会主義の現実については語られない。以上、僕の感想です。
【追記】
kusukusuさんのblogはTBが出来ないようなので、追記形式でリンクを貼っておきます。jingさんのblogはTB条件が文中リンクのようなので、こちらも追記形式ですがリンクを貼っておきます。
2006/06/29
地球が回ればフィルムも回る:『出草之歌』
2006/07/04
地球が回ればフィルムも回る:『出草之歌』に関連して丁寧な反論を頂きました!
2006/06/24
自知之明:24日より《出草之歌〜ある台湾原住民の吶喊 背山一戦》
2006/07/08
自知之明:《出草之歌〜ある台湾原住民の吶喊 背山一戦》
たしかに国民党は批判しているけれども中国共産党は批判していないのではないか?という見方は出来るのかもしれません。
また僕はそれほど考えていなかったのだけれども、「日米の植民地主義への抵抗」というのはアメリカは台湾を支配したことはないのになぜ?という疑問はたしかに沸きますね。
僕はこの映画で高金素梅氏らがアメリカでデモをしているのは国連への提訴に向けての行動でありアメリカそのものへ批判しているのではないと思って見ていたのですが、アメリカの植民地主義も批判しているのならたしかにちょっと変な気はします。
でも、そうした点は、もちろん靖国神社への批判もそうですが中国共産党の主張に合致し過ぎているようにも思えるけれども、とにかく、この映画の台湾原住民の人達が「自分達の民族の自治区をつくりたい」と主張していることは重要なような気がします。この点はどう考えても中国共産党が認めるとは思えない主張だからです。台湾独立を認めない中国共産党が少数民族の独立など、認めるわけがありません。台湾少数民族の独立などを認めたらほかの少数民族の独立も認めないといけなくなりますし。
なので、仮に中国共産党が高金素梅氏らの運動を支援していたのだとしたら、逆に実に面白い展開になると思います。高金素梅氏らが靖国神社批判や日米批判をしている分には中国共産党はこれは使えると思って支援をしているわけだけれども、ところが、彼らが「さあ、それでは我々を独立させてくれ」と主張し出したら、いや、それは待ってくれと押さえ付けることになるに決まっているからです。つまり、今まで支援をしていた相手と今度は喧嘩になることが想像されるわけで、これはある意味で中国共産党を内側から食い破るような事態になる可能性があるのではないでしょうか?
なお、僕は基本的には何も台湾原住民の人達がみんな、高金素梅氏のような主張をしているとは思っていません。というか、台湾の人達は日本寄りで、高砂族の人達は靖国神社に祀られていることを誇りに思っている人達がいるということは聞きますし、もしかしたら高金素梅氏のような考えの人達のほうが少数派であり、その意味では高金素梅氏は台湾原住民を代表してなど、いないのかもしれません。でも、とにかく、少数派であったとしても台湾原住民の中に「自分達の民族の自治区をつくりたい」という主張が出て来ているというのは面白いことだと思います。彼らが本当に中国共産党の後押しで運動しているなら、中国共産党が認められるはずがない主張を同時にしているというのは矛盾そのものであるからです。(「面白い」という言い方は不謹慎かもしれないけれども。)
それから、靖国神社のシーンはたしかに僕もどうかと思いましたね。いかに僕が左寄りの人間とはいえ、さすがに「神道はクソだ」と言われると日本人としてはカチンと来ました。でも、映画としてはこういった見た人が不快になるようなシーンをあえて残して編集しているところが面白いとも言えるのではないでしょうか? 僕もあの場面に関しては高金素梅氏はやり過ぎではないか、ちょっと運動のやり方に問題があると思ったのだけれども、そうした部分をカットせずにありのまま見せている点は映画の作り方としてはいいと思いました。むしろ、ああいう不快な思いをさせる場面がなかったらそれこそプロパガンダになってしまうと思います。
昨日最終上映で見てきましたが、靖国神社での「神道はクソだ」発言は完全に通訳の暴走です。高金素梅はそれに類する言葉は言っていません。
また部落工作隊の張俊傑の発言には「両岸問題」という言葉が頻出しており、その文脈での「社会主義を支持する」という話でしたが字幕では翻訳されていませんでした。
彼は親中派の活動家だそうです。
正直言って一部翻訳で不自然(意図的?)と感じる部分がありました。
考察のご参考になればと思います。
ただ、基本的には僕はこの映画を見て靖国問題の面で関心を覚えたというわけではなくて(こうした運動があること自体はそもそも映画を見る前から知っていたし)、それよりも台湾原住民の人達が「自分達の民族の自治区をつくりたい」と主張していることのほうに関心をもったわけです。こういう主張があることは映画を見るまで知らなかったことなので。だから高金素梅氏が親中派だと聞いても、実際にそうなのかもしれないけれども、そういう人がこうした中国が認めるとは到底、思えない主張を同時にしているという点に興味を最も覚えたというのが僕の主旨なのです。
ですから、高金素梅氏や張俊傑氏が親中派であるかどうかが僕にとって問題なのではなくて、「自分達の民族の自治区をつくりたい」という中国が認めるとは思えない主張をしていることをこの映画で知り、彼らが親中派ならばいっそうこうした主張をしているのは一体、どういうことなんだ?と思うしそこに興味を覚えるというのが僕の論旨です。
>kusukusuさんへ
台湾原住民問題に関心を持っていただきありがとうございます。
「自分達の民族の自治区をつくりたい」と主張するくだりを見て、私は正直「はぁ?」と思いました。
最終到達点はそこにあるかもしれませんが彼らには現実問題として「低学歴・低収入・失業・貧困・差別・伝統文化の消失」という世界中の先住民族が直面している問題があり、生活の基盤が安定していません。
それを解決しないで「自治」を叫ぶのは絵に描いた餅でしょう。
なお、原住民と一番敵対してるのは多数派の本省人です。彼らが「台湾独立!」と叫ぶのを横目で見ながら、原住民は「何が独立だ。台湾はもともと我々のものだ」と腐っています。原住民達には経済力・政治力がない。
中国が彼らを取り込もうとするのは「敵(台湾独立派)の敵は味方」だからで、台湾内部を混乱させることが目的なのでしょう。
当然利用した後はポイ捨てだと思います。
高金素梅らがそれを分かっていてやっているのなら、民族の裏切り者です。
タイヤル族の権利運動組織からも警告されています。
だからこそ、こうした少数民族が権利を主張することが大切なのではないですか?
現在の世界で問題なのは大国の横暴であり、これは資本主義国だろうと共産主義国だろうと変わらないと僕は思います。20世紀から21世紀へと、アメリカ、ロシア、中国などの大国が横暴なことを、少数民族への横暴や数々の戦争をしてきたことが問題であるのではないでしょうか。だから資本主義国対共産主義国という図式でとらえるのは間違いであると僕は思います。アメリカもロシア、中国もどっちもどっちなんですから。
だから大切なのは、世界中の少数民族が連携してそうした大国に対して(資本主義国か共産主義国かという枠をこえて)独立する道を探っていくことではないでしょうか? インターネットが普及して世界がグローバル化している時代だからこそ、そうした連携は可能性があると思います。その意味では沖縄だって独立すればいいという僕は考えていて、もし沖縄の人達が日本から独立したいと運動を起こしたならば支持したいと僕は思います。
でも、アメリカ、ロシア、中国などの大国の横暴にいかに抵抗していかに少数民族を守っていけばいいのかということは台湾にかかわらず、世界中の少数民族に共通する問題であると思います。
その意味では、歌で訴えるというのはやり方としてはいいのではないでしょうか? 少なくとも武力を用いたりテロをしたりするよりはよっぽどいいと思うし、また現状では現実に実現性がないことでも歌を残して子孫に伝えていけば次世代の人達がそれを実現させる日が来るかもしれません。この映画を見て、歌でこうしたことを訴えるというのはいい方法論であるように僕は思いました。
コメントありがとうございます。日々の映画日記の更新で手一杯になっていて、なかなか返事できず申し訳ありません。台湾原住民族部落工作隊の綱領における「日米の植民地主義に抵抗する」という一文の不自然さについては、一定の了解を得られたと思うので、今回はそれ以外の点について書いてみます。
kusukusuさんの御指摘は(1)高金素梅氏の運動に瑕疵があろうとも、台湾原住民族の自治権獲得運動自体は批判されるべきものではない(2)台湾(中華民国)を国家と認めない中国(中華人民共和国)が台湾原住民族の自治権獲得運動を認めるはずがない、ですね。
(1)については、一般論としては賛成します。その上で、彼らの主張する「自治」が民族区域自治(自治州)のことなのか、台湾政府からの完全な独立を意味するのかですが、高金素梅氏が国会議員にあたる立法委員として活動していることからすると、前者であろうと思います。完全な独立を目指すのであれば武力蜂起しているでしょうから、民族区域自治としての一定の裁量を求めていると考えた方が筋が通ります。彼らの主張は映画を観た限りでは、大日本帝国や台湾政府から土地や生産手段を収奪されたこと、台湾大地震後の復旧において公平な資本の再分配に与れていないこと、主にこの二点について台湾政府に改善を求めています。これらの改善に自治は必ずしも必要ではありませんし、仮に求めるにしてもそれは完全独立ではなく、民族区域自治で足ります。
そして、台湾原住民族がその意味での自治を求めること自体は、私が良い悪いと言う筋合いのものではないのですが、高金素梅氏が中国共産党の支援を得ているのであれば、それは山海関を開いて清軍を招き入れた呉三桂の例を見れば分かるように、自国(台湾)内での自治権獲得運動に他国(中国)を招き入れること自体が手法として危険です。自治権獲得運動をするにしても、大国に善意を利用されるような形での活動は、結果的に原住民族の利益に反するのではないでしょうか。
(2)については、中国共産党と台湾原住民族との間に自治についての密約があるか、あるならどの程度の内容なのかについては分かりませんが、仮に、そういう密約が存在しているとしても双方の「自治」についての定義が違うことは考えられます。
台湾と中国の関係は「台湾は中国の一部か否か」という独立に関わる問題ですが、高金素梅氏の活動が独立ではなく民族区域自治であれば、特に中国が現時点で問題にするとは思えません。中国には既にチベット自治区、新疆ウイグル自治区、内モンゴル自治区、広西チワン族自治区、寧夏回教自治区があるので、民族区域自治を認めること自体はそう矛盾しません。台湾原住民族の自治権獲得運動を中国が後押ししたとしても、他の少数民族の独立運動に影響を及ぼさなければ、自治権を認める可能性はあると思います。中国はgoogle検閲に見られるように情報統制国家ですから、台湾原住民族の活動についても、共産党の意思に合致する範囲内、許容できる範囲内でしか中国国内では流通しないと思います。
他方、台湾原住民族が求めている「自治」が民族区域自治ではなく独立であった場合は、中国が態度を変えることは考えられます。自治権についての密約があったとしても、それが密約に留まる限りは併合後に反故にされる可能性はあります。この場合、原住民族は完全に利用されたことになります。仮に中国が台湾を併合した後に原住民族と自治権に関して揉めたとしても、台湾の人口は外務省の発表によれば2,278.5万人ですから、人口約2300万人の中華民国を相手にするよりは、台湾原住民族約40万人を相手にした方が、中国共産党にしてみれば組し易いということになります。台湾側から見れば、中華民国でさえ中国と距離を置こうとすると国論が割れるのですから、台湾人口の約2%に過ぎない原住民族が対抗できるのかということです。この点で、台湾内部での不協和音は、中国の伝統的な遠交近攻外交と一致します。台湾原住民族の自治権獲得運動を支援すること(靖国合祀反対訴訟についても然り)によっては、中国が失うものは何もないという点もポイントだと思います。
とはいえ、個人的には映画『出草之歌』については「そういう映画もありかな」「歌で訴えていく手法は平和的で良いな」と考えていたのですが、僕の観に行ったときの上映主催者側の態度、イデオロギーの強さ、「偏向」と言っていいような雰囲気が気味悪かったです。ネット上の嫌韓反中的風潮とベクトルが逆なだけで、やっていることは同じではないか、と。そこまで書くと言い過ぎかもしれませんが、もうちょっと一般人が鑑賞し易い雰囲気にならないものかと。
その他、高金素梅氏について感じたことは、これは繰り返しになりますが、この人物が台湾原住民族を代表できる存在なのか否か、ということです。高砂族といっても親日派と反日派がいるということとは別に、以下のような観点からの疑問です。
台湾人戦没者の靖国神社合祀反対運動(及び小泉首相の靖国神社参拝反対運動)においては、靖国神社及び日本国が権力側、高金素梅氏が非権力側という構図になります。他方、高砂義勇隊慰霊碑撤去運動においては、立法委員である高金素梅氏が権力側、慰霊碑を管理していた故・周麗梅氏とその子息である邱克平氏が非権力側になります。自らが権力側の場面では他者の価値観、しかも同じ高砂族の価値観を尊重しない人間が、自己の価値観の尊重を求めることの矛盾。このことについて考えると、高金素梅氏が高砂族という台湾原住民族を代表できる存在なのかという点に疑問を感じるのです。映画を観た限りでは、反日や反米といったイデオロギーが先行していて、実際の高砂族の暮らしに立脚していないような印象を受けました。これはイデオロギーが親日・親米・反中であったとしても同様です。つまり、この人物を支援することが台湾原住民族の幸福に合致するのかという点に疑問を感じました。
コメントありがとうございます。靖国神社内のシーンで、高金素梅氏が見た感じ激昂まではしていなかったようなのに、訳で凄く攻撃的だったことに違和感はありましたが、当方、中国語はさっぱり解らないので、通訳・字幕の間違いは考慮していませんでした。御指摘ありがとうございます。
貴blogの内容は、高金素梅氏の経歴や他の誤訳・無訳(とでも言うのか)のこと、原住民の階層社会のこと、慰霊碑撤去運動に対する反応など、大変参考になりました。ライブハウスで歌っていたの方が誰だったか気になってモヤモヤしていた感じも晴れました。歌が良かった映画でした。
>「俺たちゃもともと楽しいのが好きなのさ、なぁ?」
冒頭、登場する原住民の人たちには余裕があって、この言葉のイメージの方がしっくりくる気がしました。
僕は「自治区をつくる」ことは独立を求めることだという前提で書いていたのですが、ちょっと乱暴だったかもしれません。
たしかにチベット自治区のような自治区を中国政府に対して求めるということなら、それは台湾が中国に含まれるということを認めた上での話になりますから、たとえば「台湾が中国に含まれることを認める。その上でチベット自治区のような自治区を中国政府に求める。」という密約みたいなものがあっての話ということも考えられます。
そうだとすると、僕も考え直さないといけない点が出てくるかもしれませんが。
高金素梅氏の本心がどこにあるのかを知りたいところですが、中国側が「併合後に反故」といったことをもしかしたら考えていて駆け引きをしているように、高金素梅氏の側も駆け引きをされているのでしょうから、そんな一筋縄ではいかないものなのかもしれません。
この映画作品そのものでは描かれていない部分について議論をすすめているようですが、それだけ複雑な背景があるということでしょうか。
ところで、ねこめ〜わくさんが行かれた時は関係者のシンポジウムか何かがあったのでしょうか? 僕がいった時はほとんど映画だけを見てすぐ帰って来ましたので特別な会場の雰囲気というものは感じなかったのですが。
たまたまでも周りにいかにも左翼セクトみたいな人達が集団できていたのかもしれませんが。
僕個人は靖国神社にいろいろ問題はあるとは思うけれども、たとえば中国や韓国が小泉首相の参拝を批判してくるのは内政干渉ではないかと思います。「個人の信教の自由」というのはそれはそうだとは思うし。でも、「個人の信教の自由」ということなら、靖国神社に祀られることを望んでいない人達とその遺族まで祀ってしまうというのはどうなのだろうかという疑問も沸きます。台湾や韓国にだけではなく、日本国内にも、たとえばキリスト教徒なので靖国神社に祀られることを望まないという人がいます。そういう人まで祀ってしまうのは「個人の信教の自由」に反してはいないのでしょうか? A級戦犯の場合は、遺族も祀られることを望んでいますので、ちょっと事情が違いますが。
(誤)
靖国神社に祀られることを望んでいない人達とその遺族まで祀ってしまうというのはどうなのだろうか
→
(正)
本人と遺族が靖国神社に祀られることを望んでいない人達まで祀ってしまうというのはどうなのだろうか
コメントありがとうございます。またまた返事が遅れてしまいまして、申し訳ありません。自治に関して一定の意見の一致が見られたようなので、この件についてはこれまでとします。高金素梅氏の本心については氏自身にしか解らないものなので、僕としては氏の本心よりも、立法委員として氏が代表している高砂族の総意がどうなのかが重要ではないか、と思います。本映画内で描かれていない部分について議論が及ぶのは、描かれている部分の政治色に拠ります。靖国訴訟とも高砂族とも関係のない米国批判を出しておいて、中国批判は微塵も出てこなければ、描かれていない部分に意図があるのではないか、と。
会場の雰囲気についてですが、上映前はそう悪い感じではなかったです。映画の前に関係者からの簡単な説明があり、上映後には靖国訴訟に関するシンポジウムがあったようです。シンポジウムには参加せずにすぐ帰ったので詳細は知りません。帰り際、前に「平和護憲」背中に「殺さない、殺させない」と書かれた憲法9条Tシャツを着たおじいさんと話しましたが、それは別にどうとも思いませんでした。気味悪かったのは、上映中に脇で原住民族のCDを販売している女性(明らかに主催者側の人間)が「靖国はクソだ」というシーンや「KOIZUMI GO TO HELL」というシーンで同調するように嘲笑したときですね。仮に、観客席からそういう反応が出たとしたら、それは率直な感想なんでしょうが、主催者側が上映中に露骨にそういう反応を示すのか、と。
靖国問題については、信教の自由と政教分離について賛否双方に言い分がありますが、論争の主要な部分は、国内的には、A級戦犯合祀と靖国神社の戦争観であり、対外的には、被害者感情よりも外交カードという側面が強いように思います。中国人・韓国人の反発の中にはA級・B級・C級の区別もつかない人や「位牌を返せ」と主張する人もいるようですから。
他国からの反対を理由とする参拝反対論についてはkusukusuさんと同じく内政干渉だと思います。また、公人であっても信教の自由はあるので、献花代が私費であれば政教分離にも違反しないと思います。日本の首相が日本国内の寺社仏閣に行けないというのも移動の自由に反します。A級戦犯については、死刑などによって既に罪に相当する罰を受けています。死後にさらに差別するようなことは子孫への差別を助長するでしょうから、その区別についてはもうそろそろどうにかした方がよいと思います。
靖国神社については余り詳しくは知りませんが、確か、霊璽簿に書かれているだけで、遺族が他に墓や慰霊碑を建てることを妨げてはいないので、各遺族はそれぞれの宗教・宗派の祀り方を独自にすればよく、要は心の持ちようではないかと思います。なぜ、そういう心の部分でこそ反権力になれないのか、と。そして、高金素梅氏のように高砂族という括りを持ち出して、靖国神社に祭られたいと考えている他の高砂族遺族の意思を問わずに運動している人にはついていけません。
他方で、心の持ちようという気にはなれない人の信教の自由や心の平安もあるので、靖国神社側の譲歩もまた必要になってくるのでしょうが、一宗教法人であるうちは政府が強制することは政教分離に反するので、自発的変化を待つほかないでしょうね。
そういう政治問題の皺寄せを受けるのは静かにお参りしたいという遺族であり、遺族の高齢化が進んでいることを考えると、慰霊施設の運営については議論をすべきだと思います。反対派にとっても、戦後、靖国神社が一宗教法人になっていることによる皺寄せもあったと思います。靖国問題については、右や左といったイデオロギーを抜きにした時に、一番困っているのは誰かという点にしか興味ありません。どういう判断をしても納得のいかない人が出てくる問題なので、あとは個々人の優先順位の問題だろうと思います。政治としては妥協点の模索が求められる訳ですが。
>そういう政治問題の皺寄せを受けるのは静かにお参りしたいという遺族
だからこそ、靖国神社が自発的にA級戦犯を分祀して(仰る通り、「政府が強制することは政教分離に反する」から靖国神社自身の意思で行なうべきなだと思いますが)、たとえば靖国神社の隣にA級戦犯の碑を立てて、そっちもお参りしたい人はするし、それは個々の人の自由に任せるという形にするのが一番、現実的な解決策なのではないかと僕は思うのですが。
僕のおじさんも戦死して靖国神社に祀られていますが、僕の親戚の間でも靖国神社についての考えはそれぞれ違いますね。参拝に行かれる方も、A級戦犯が合祀されている限りは行かないという方もおります。僕自身も、現在は参拝に行くことを躊躇してしまうのですが、A級戦犯を分祀してくれたら行けるんだけどと思うこともあります。
まあ、親戚でもこれだけ考えが違うし、国民の意見を統一するというのは無理な話なのではないでしょうか。
だから、A級戦犯を分祀してA級戦犯の碑を立ててそちらも参拝したい人は自由に参拝するという形にして選択の自由があるようにするのが現実的でいいのではないかと思うのです。
でも、これは単に僕の個人的意見で、靖国神社自身に当面、そうした考えはないようですので、空論で
しかないのかもしれませんが。