2006年07月27日

残るもの、消えるもの

 残るもの、消えるもの

 学生時代、国語の教科書に「記憶」にまつわる話が載っていた。
 エッセイで友人との会話形式だったように思う。

 筆者は旅行の際、何枚も写真を撮るのだが、友人はほとんど撮らないという。「何故撮らないのか?」と尋ねると、「記憶しようとする意思が薄れるから」という答えが返ってくる。「記憶」を残すために撮った写真が担保になり、意識的に風景を観なくなる、と。筆者は会話の中で、友人より記憶を残せていないことに思い至る。「記憶」を残すことに夢中になり、記憶が残らない。確かこんな話だった。もう少し長い文章だったような気もするが、前後の文章は忘れてしまった。その他に覚えていることと言えば、教師が「今を真剣に生きろ!」みたいなテーマに広げていたことくらいで。(当時は今以上に「真剣に生きる」って意味が判らなかった。教師自身が真剣に生きているのかも判別不能だったし。真剣って何だろね。)

 まぁ、いいや。

 今生の別れと思えば、何気ない日常よりは記憶に残るだろう。一度きりって思い込むことで出てくる火事場のくそ力みたいなものもあるだろう。「人間はほんの数パーセントの能力しか生かしていない」って北斗の拳でも言っていた。うん。

 とにかく、この文章を読んだ頃くらいから僕は写真を撮らなくなった。ここ最近まで頼まれてシャッターを押す以外にカメラに触ったことが無い。(携帯の写メールって便利よね。)青年期の刷り込みがいかに根強いものか分かって頂けると思う。

 しかし、顧みて自分が意識的に生きてこられたか?というと、大いに疑問が残る。大概、無自覚に生きてきた。人生、ごめん。僕に吸われた酸素、ごめん。

 結局のところ「意識的に生きている人間の一部が、写真を撮らないのであって、写真を撮らないと決めた全ての人間が、意識的になれるって訳じゃない。」なんて、ありきたりな結論に行き着く。

 思い返してみると、随分と胡乱な人間なので、ほとんどの記憶が断片的なイメージでしか残っていない。トレースできるのは、自分が面白がったものを中心に、半径50センチくらいの興味を細い糸にして繋いだ記憶のワッカ。だから、大好きな映画の話をする時でさえ、正確にあらすじを語れない。悲しいことだが、考えても無駄なので、気に入ったものは忘れたころに手にとって観返すことにしている。ザルに水を溜めたいなら浸けておこう。とりあえず、水が溜まっている気分は味わえる。

 このようにして同じものを何度か観ることがあるのだが、毎度、同じ感覚を味わうとは限らない。体調、心境の変化?何がきっかけになるのかは分からないが、以前面白がった所がそうでもなかったり、気にならなかった所が印象に残ったり、と感覚に変化がある。(元々の読み取りが甘かったって可能性もあるけど。)そういうのが楽しくもある。

 記憶って何かって考えると難しい。一期一会の精神も確かに大切だけれど、予備知識無しに見たり、ぼんやりと眺めたり、ポイントを定めて観たり、様々な角度から見ることで補完されることもある、と思う。

 映画館一度っきりじゃあ、多分、人の半分も記憶に残らないから、大好きな映画は手元に残す。真っ当な人生を押しのけて、DVDを買い散らかしてゆくのだ。なけなしの銭を撒き散らして地に堕ちていくのだ。わはは。
posted by ねこめ〜わく at 23:09| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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