基本的に目から得た情報は拭い難い。例えば、手品。無から有を生み出すことなんて、論理的にありえない。なのに、皆が皆、大仰に驚いてみたりする。「在り得なさ」を楽しみに来ているのだから当然なのだけど、何故、人が「在り得ない」と驚くのか?ということを考えると、目に対する絶大の信頼に行き着く。目にしたものは受け入れてしまう。暗闇に対する恐怖を想像するまでもなく、目を閉じて三歩歩いてみれば簡単に理解できる。「見えていない」と極端に不自由になる。それだけ目に頼っている。見たものを信じないと生が成り立たない。
視界に入るものはとめどない。目を開いている限り絶え間なく入り込む。だから、全部受け止めてなんかやってられない。見ているようで見ていなくて、見ていないようで見ていることがたくさんあったりする。信号待ちで突っ立っていても、信号機の向こう看板までは見えていなかったり、ぼーっと眺めているだけのテレビの内容を急に思い出したり。
生きている限りすべてを意識的に受け取るってことは難しい。メディア・リテラシーってのも大切だけれど、受取り手の自助努力だけに頼ってはなかなか進展しないよね。
実際の事件を元に、ドキュメンタリーっぽい作りの映画を作るとしたら、それ相応の慎重さがあって欲しい。それが現在に続くナイーブな問題であるのならなおさら。相応の但し書きをつけるとか、どうにかならなかったのかな?それで金儲けしているのに。
飛行機は錐揉み状態、足元も覚束ない機内なのに、華奢な台車一つでどうやってコクピットのドアをブチ破れるのか?この描写にはあきらかなフィクションが含まれていると思う。そうあって欲しい願望。テロリストが体育1か2にしか見えないのもそう。マクロな惨劇としてより、ミクロな悲劇として消化したい願望。
真実は分からないけれど、「アメリカ人はこう捉えたいんだ。」ってことは分かった。それくらい深い問題であることも。
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