2007年09月25日

信念が世界を変えた〜背面跳び フォスベリー〜

NHKのBSで放送されたスポーツ大陸を見た。

信念が世界を変えた〜背面跳び フォスベリー〜


多分、誰だって中学や高校で走り幅跳びって経験あると思うんだけど。


はさみ飛び、ベリーロール、背面飛び。

なんか別の競技みたいに思えたことなかったっスか?

妙にはさみ飛びだけが得意な奴とか居たりして。



背面飛びを編み出したフォスベリーも最初はさはみ飛びしか出来ない奴だった。

番組の途中にいくつか当時の彼を知る人のインタビューが入るんだけれど。




いかに彼が不器用な子であったかに終始した感が。。。





友人が他の友人と賭けをする話

フォスベリーが部屋に入る前に部屋中に缶などを散らばらせて置いて、彼が出て行くまでに幾ら倒れるか賭けた、と。

ご多分に漏れずキチンと倒していった、と。







実の親のインタビューもあったんだけど、

「色々試したけれど、どのスポーツも駄目で残ったのが高飛びであった。」と





泣かせるぜ。。フォスベリー。





そんな彼ははさみ飛びからフォームを変えないで高校も高飛びをし続けるのだけれど、その当時の主流であったベリーロールの記録からは遠く及ばない。

力学的に姿勢を立てたままのはさみ飛びは、状態を寝かせたベリーロールより効率が悪い。


更に追い討ちをかけるかのように、見込みのある新人が入ってくる。

コーチから三段跳びへの変更を勧められる。











高飛びだけは辞めたくない。






追い詰められたフォスベリーの悪戦苦闘が始まる。









バーを越える為には、バーよりも腰を浮かさなくてはならない。

あるとき、それは偶然に生まれた。

腰を浮かすと上半身が水平になった。

背面飛びの誕生である。







それは誰もが見たことの無い飛び方だった。











彼はその後も試行錯誤を重ねた。

助走の付け方、走り込む角度。

誰も試したことの無い飛び方だから、先生なんかいやしなかった。

タイム誌は「これまでに考案された中で最もこっけいな跳び方」と評した。








それは想像を絶する孤独な戦いだったに違いない。
















1968年、メキシコ五輪

彼の努力が実を結ぶ。




2m24cm 

オリンピック記録を塗り替えての

金メダル







現役を引退した今も、彼は時間を作って地元の高飛び選手の指導に当たっている。


この飛び方で世界が変わると思いましたか?

ある現役選手が尋ねた。










いや、そんなこと、考えていなかった

とにかく

高飛びを続けたかったんだ。






くぅ〜、泣かす。
posted by ねこめ〜わく at 00:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年08月30日

ある聖人の話

最近、とても心を打たれた記事があったので紹介します。
すこしでも多くの人に知って貰いたいので。

 産経新聞 引用
「軍命令は創作」初証言 渡嘉敷島集団自決 元琉球政府の照屋昇雄さん
http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/16661/


第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。渡嘉敷島の集団自決は、現在も多くの歴史教科書で「強制」とされているが、信憑(しんぴょう)性が薄いとする説が有力。琉球政府の当局者が実名で証言するのは初めてで、軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ。
 照屋さんは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた。当時、援護法に基づく年金や弔慰金の支給対象者を調べるため、渡嘉敷島で聞き取りを実施。この際、琉球政府関係者や渡嘉敷村村長、日本政府南方連絡事務所の担当者らで、集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討したという。
 同法は、軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていたため、軍命令で行動していたことにして「準軍属」扱いとする案が浮上。村長らが、終戦時に海上挺進(ていしん)隊第3戦隊長として島にいた赤松嘉次元大尉(故人)に連絡し、「命令を出したことにしてほしい」と依頼、同意を得たという。
 照屋さんらは、赤松元大尉が住民たちに自決を命じたとする書類を作成し、日本政府の厚生省(当時)に提出。これにより集団自決の犠牲者は準軍属とみなされ、遺族や負傷者が弔慰金や年金を受け取れるようになったという。
 照屋さんは「うそをつき通してきたが、もう真実を話さなければならないと思った。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂かれる思いだった」と話している。
 300人以上が亡くなった渡嘉敷島の集団自決は、昭和25年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記「鉄の暴風」などに軍命令で行われたと記されたことで知られるようになった。作家の大江健三郎さんの「沖縄ノート」(岩波書店)では、赤松元大尉が「『命令された』集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長」と書かれている。
 その後、作家の曽野綾子さんが詳細な調査やインタビューを基にした著書「ある神話の背景」(文芸春秋)で軍命令説への疑問を提示。平成17年8月には、赤松元大尉の弟らが岩波書店と大江さんを相手取り、損害賠償や書物の出版・販売の差し止め、謝罪広告の掲載を求める訴えを大阪地裁に起こしている。(豊吉広英)
                  ◇
【用語解説】渡嘉敷島の集団自決
 沖縄戦開始直後の昭和20年3月28日、渡嘉敷島に上陸した米軍から逃げた多数の住民が、島北部の山中の谷間で手榴(しゅりゅう)弾のほか、鎌(かま)、鍬(くわ)などを使い自決した。武器や刃物を持っていない者は、縄で首を絞め、肉親を殺害した後に自分も命を絶つ者が出るなど悲惨を極めた。渡嘉敷村によると、現在までに判明している集団自決の死者は315人。
【用語解説】戦傷病者戦没者遺族等援護法
 日中戦争や第二次大戦で戦死、負傷した軍人や軍属、遺族らを援護するため昭和27年4月に施行。法の目的に「国家補償の精神に基づく」と明記され、障害年金や遺族年金、弔慰金などを国が支給する。サイパン島などの南方諸島や沖縄で日本軍の命を受けて行動し、戦闘により死傷した日本人についても戦闘参加者として援護対象とされている。
                  ◇
≪「大尉は自ら十字架背負った」≫
 「大尉は、自ら十字架を背負ってくれた」。沖縄戦の渡嘉敷島で起きた集団自決の「軍命令」を新証言で否定した元琉球政府職員、照屋昇雄さん(82)。島民が年金や弔慰金を受け取れるようにするために名前を使われた赤松嘉次元大尉は、一部マスコミなどから残虐な指揮官というレッテルを張られてきた。照屋さんは、自分のついた「うそ」で、赤松元大尉が長年非難され続けてきたことがつらかったという。
 赤松元大尉は昭和19年9月、海上挺身隊第3戦隊の隊長として渡嘉敷島に赴任した。任務は120キロ爆雷を積んだベニヤ製特攻艇を使った米艦船への体当たり攻撃。ところが、20年3月の米軍主力部隊上陸前、作戦秘匿を理由に出撃前に特攻艇の自沈を命じられ、終戦まで島内にとどまった。
 戦傷病者戦没者遺族等援護法では、日本軍の命令での行動中に死傷した、沖縄やサイパンの一般住民は「戦闘参加者」として準軍属として扱うことになっている。厚生労働省によると、集団自決も、軍の命令なら戦闘参加者にあたるという。
 照屋さんは、本来なら渡嘉敷島で命を落とす運命だった赤松元大尉が、戦後苦しい生活を送る島民の状況に同情し、自ら十字架を背負うことを受け入れたとみている。
 こうして照屋さんらが赤松元大尉が自決を命じたとする書類を作成した結果、厚生省(当時)は32年5月、集団自決した島民を「戦闘参加者」として認定。遺族や負傷者の援護法適用が決まった。
 ただ、赤松元大尉の思いは、歴史の流れのなかで踏みにじられてきた。
 45年3月、集団自決慰霊祭出席のため渡嘉敷島に赴いた赤松元大尉は、島で抗議集会が開かれたため、慰霊祭に出席できなかった。中学の教科書ではいまだに「『集団自決』を強制されたりした人々もあった」「軍は民間人の降伏も許さず、手榴弾をくばるなどして集団的な自殺を強制した」(日本書籍)、「なかには、強制されて集団自決した人もいた」(清水書院)と記述されている。
 渡嘉敷村によると、集団自決で亡くなったと確認されているのは315人。平成5年、渡嘉敷島北部の集団自決跡地に建てられた碑には、「軍命令」とは一切刻まれていない。渡嘉敷村の関係者が議論を重ねた末の文章だという。村歴史民俗資料館には、赤松元大尉が陸軍士官学校卒業時に受け取った恩賜の銀時計も飾られている。
 同村の担当者は「命令があったかどうかは、いろいろな問題があるので、はっきりとは言えない。しかし、命令があったという人に実際に確認するとあやふやなことが多いのは事実。島民としては、『命令はなかった』というのが、本当のところではないか」と話した。
 今回の照屋さんの証言について、「沖縄集団自決冤罪(えんざい)訴訟を支援する会」の松本藤一弁護士は「虚偽の自決命令がなぜ広がったのか長らく疑問だったが、援護法申請のためであったことが明らかになった。決定的な事実だ。赤松隊長の同意については初めて聞く話なので、さらに調査したい」とコメント。昨年、匿名を条件に照屋さんから話を聞いていた自由主義史観研究会の代表、藤岡信勝拓殖大教授は「名前を明かしたら沖縄では生きていけないと口止めされていたが、今回全面的に証言することを決断されたことに感動している。また一つ歴史の真実が明らかになったことを喜びたい」と話している。
 照屋さんは、CS放送「日本文化チャンネル桜」でも同様の内容を証言。その様子は同社ホームページで視聴することができる。
                  ◇
≪「真実はっきりさせようと思った≫
 照屋昇雄さんへの一問一答は次の通り。
 −−なぜ今になって当時のことを話すことにしたのか
 「今まで隠し通してきたが、もう私は年。いつ死ぬかわからない。真実をはっきりさせようと思った」
 −−当時の立場は
 「琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員の立場にあった。以前は新聞記者をしていたが、政府関係者から『援護法ができて、軍人関係の調査を行うからこないか』と言われ審査委員になった。私は、島民にアンケートを出したり、直接聞き取り調査を行うことで、援護法の適用を受ける資格があるかどうかを調べた」
 −−渡嘉敷ではどれぐらい聞き取り調査をしたのか
 「1週間ほど滞在し、100人以上から話を聞いた」
 −−その中に、集団自決が軍の命令だと証言した住民はいるのか
 「1人もいなかった。これは断言する。女も男も集めて調査した」
 −−ではなぜ集団自決をしたのか
 「民間人から召集して作った防衛隊の隊員には手榴(しゅりゅう)弾が渡されており、隊員が家族のところに逃げ、そこで爆発させた。隊長が(自決用の手榴弾を住民に)渡したというのもうそ。座間味島で先に集団自決があったが、それを聞いた島民は混乱していた。沖縄には、一門で同じ墓に入ろう、どうせ死ぬのなら、家族みんなで死のうという考えがあった。さらに、軍国主義のうちてしやまん、1人殺して死のう、という雰囲気があるなか、隣の島で住民全員が自決したといううわさが流れ、どうしようかというとき、自決しようという声が上がり、みんなが自決していった」
 −−集団自決を軍命令とした経緯は
 「何とか援護金を取らせようと調査し、(厚生省の)援護課に社会局長もわれわれも『この島は貧困にあえいでいるから出してくれないか』と頼んだ。南方連絡事務所の人は泣きながらお願いしていた。でも厚生省が『だめだ。日本にはたくさん(自決した人が)いる』と突っぱねた。『軍隊の隊長の命令なら救うことはできるのか』と聞くと、厚生省も『いいですよ』と認めてくれた」
 −−赤松元大尉の反応は
 「厚生省の課長から『赤松さんが村を救うため、十字架を背負うと言ってくれた』と言われた。喜んだ(当時の)玉井喜八村長が赤松さんに会いに行ったら『隊長命令とする命令書を作ってくれ。そしたら判を押してサインする』と言ってくれたそうだ。赤松隊長は、重い十字架を背負ってくれた」
 「私が資料を読み、もう一人の担当が『住民に告ぐ』とする自決を命令した形にする文書を作った。『死して国のためにご奉公せよ』といったようなことを書いたと思う。しかし、金を取るためにこんなことをやったなんてことが出たら大変なことになってしまう。私、もう一人の担当者、さらに玉井村長とともに『この話は墓場まで持っていこう』と誓った」
 −−住民は、このことを知っていたのか
 「住民は分かっていた。だから、どんな人が来ても(真相は)絶対言わなかった」
 −−あらためて、なぜ、今証言するのか
 「赤松隊長が余命3カ月となったとき、玉井村長に『私は3カ月しか命がない。だから、私が命令したという部分は訂正してくれないか』と要請があったそうだ。でも、(明らかにして)消したら、お金を受け取っている人がどうなるか分からない。赤松隊長が新聞や本に『鬼だ』などと書かれるのを見るたび『悪いことをしました』と手を合わせていた。赤松隊長の悪口を書かれるたびに、心が張り裂ける思い、胸に短刀を刺される思いだった。玉井村長も亡くなった。赤松隊長や玉井村長に安らかに眠ってもらうためには、私が言わなきゃいけない」




先の大戦において、沖縄は捨石になりました。そこに残された人々を救うため、自ら悪役を演じた赤松さんの行為は杉浦千畝と並び賞賛されるべきことだと思います。

しかし、このことについて一部のメディアしか取り上げていません。我が身のことになると、メディアは著しく意味を成さない。誤りを正すことによって、自らの言質を軽くするかのように、腰が重い。

ここで書くことが何の力になるのか分かりませんが、読んで下さった方、ありがとうございます。

一日も早く、赤松さんのいわれなき罪が晴れますように。
posted by ねこめ〜わく at 02:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年07月04日

Kusukusuさんへの返信

 この記事は5月23日の「さらば映画秘宝  思想から遠く離れて」の続きにあたります。


>Kusukusuさんへ

 『出草之歌』に関するコメントありがとうございます。書いているうちに長文になりましたので、コメントではなく本文で返事をさせて頂きます。

 「左寄り」と表明されてしまうと少し戸惑うのですが、先の『出草之歌』についての記事はそもそも右寄りだから書いたものではありません。僕が右寄りか左寄りかを判断されるなら先の記事と共に『ハーヴェイ・ミルク』についての記事も読んで頂けると幸いです。

 また、先の記事は映画『出草之歌』を批判したくて書いたものでもありません。そのことは、冒頭の「映画の内容についてはともかく」との記述やタイトルが他の記事とは異なり映画名になっていないこと、すなわち『出草之歌』となっていないこと、さらには属するカテゴリーが映画カテゴリーではないことからも分かると思います。先の記事をUPした5月23日の時点では、『出草之歌』が公開されていないので批判のしようがありません(東京の6月3日が初上映)。以上を前提に書きます。


 先ず、前回は、霧社事件と台湾人戦没者の靖国神社合祀反対運動という、高砂族という点以外には繋がりを見出せない事柄について、民族音楽学者である故・小泉文夫氏の『首狩り族は得てして音楽も優れている』という言葉を本来の文脈とは異なる引用の仕方(リアル首チョンパ映画という表記)で接合することで、自己の主張に合う一連の流れとして見せている映画秘宝・田野辺尚人編集長を批判しています。その際、高金素梅氏が高砂族を代表する存在であるのかという点に疑義を示しましたが、これも田野辺氏の記事が殆ど何のフォローもなく既成事実として述べている点に対してです。それがこの記事の全てです。

 次に、高金素梅氏が中国寄りか否かについてKusukusuさんのTB先には「同時に戦後の漢民族による支配にも批判的なのであり」と書いていますが、「戦後の漢民族」というのは中国共産党ではなく、蒋介石率いる国民党を指すのではありませんか?台湾独立を掲げる民進党の前党首・李登輝氏は親日家で有名です。高金素梅氏が、日本にも戦後の漢民族による支配にも批判的と言われても、それは日本・民進党・国民党に対して批判的なのであって、中国共産党に批判的なのかは不明です。


 映画を観て、先ず思ったのは、首狩りの歌が新曲だったこと。その曲自体は語り継がれたものではなかった点で、故・小泉文夫氏の研究していた首狩族と音楽の関係とは異質ではないかと感じました。それから、高金素梅氏は癌を患ったことを二度ほど告白していますが、それと立法委員との活動に何の関係があるのか、この辺りに少数者の甘えを感じました。

 それから、台湾原住民族を支配してきた国家であるオランダ・スペイン・清朝・大日本帝国・中華民国の国旗を、原住民族を表す蛇が貫いている図を、高金素梅氏が紹介するシーンがあります。特に大日本帝国の支配が過酷であったとも言っていました。ここに中国共産党が入っていないのは、台湾原住民族を現に支配していないので当然ではありますが、清朝は満州族の王朝ですし、戦後の漢民族が国民党と中華民国を指すことは国旗から明らかであり、次のことと合わせて考えれば興味深いです。

 それは、原住民族部落工作隊の綱領に「日米の植民地主義に抵抗する」という一文が入っていたことです。何故、台湾原住民族の土地を支配していない米国が挙がっているのでしょうか。連合国軍が憎いのであれば、米英蘭なども批判すべきですが、そんなことはない。台湾大地震後に結成された団体の綱領に「日米の植民地主義への抵抗」と書かれても、具体的にどういう意味なのか。反戦的な意味合いから、米国のベトナム戦争やイラク戦争を非難するのであれば、中華人民共和国によるチベットやウイグルへの侵略、中越戦争もまた覇権主義という観点からは非難に値します。が、ここでも中国共産党の名は一切出てきません。

 この点に、本映画のメッセージが隠れていると思いませんか?日本・米国・台湾に共通するのは何でしょうか。中華人民共和国、中国共産党との緊張関係ではありませんか?この映画には何が描かれていて、何が描かれていないのかを考えれば、自ずとある国家が浮かび上がってくると思います。そう考えると「良識ある漢族」という言葉も味わい深いものがあります。


 「自分達の民族の自治区をつくる」という点について。タイヤル族の人口は8万6000人と言われています。高砂族全体では40万人と言われています。この内、高金素梅氏が代表するのは何人でしょうか。立法委員に立候補した際の経緯や高砂義勇隊慰霊碑の撤去活動に積極的な件と合わせて、この人物が高砂族を代表できる存在なのかどうか、中国と台湾が独立で揉めているのに台湾内で自治を求めることが本省人や他のタイヤル族にとっても妥当なことなのかも含めて、検討されたでしょうか。

 あとは、個人的な幾つかの感想を。映画を観るまでは特に映画自体には好悪の感情はありませんでした。が、特に二つのシーンが残念でした。一つ目は、靖国神社の関係者に詰め寄るシーン。少数者の権利を鈍感な多数者に伝える際には、時に怒号や暴力が生じることもありますし、それをもって少数者だけの責めにするのは不公平な部分もありますが、あのシーンでの怒号は少数者の態度というよりヤクザそのものでした。

 そして、そのシーンで高金素梅氏側の人間が「神道はクソだ」と連呼し出すと、何故か本映画の主催者側の人間が、数人、同意するように笑い出しました。その会場の入り口で「平和護憲」と「教育基本法改悪反対」のチラシも貰いましたが、これが平和を愛する方々の姿なのでしょうか。自身に大切にしているものがあるのなら、他人にも大切がするものがあることを認めるべきでしょう。裁判所前で「通行の邪魔だ」とおっさんに絡まれるシーンも、確かに通行の邪魔でした。自らの正しさを示したいという理由であれ、手順の正しさを踏まえなくては周囲は認めてくれません。ここにも甘えを感じました。


 二つ目は、米国の国連ビル前でのデモ行進のシーン。「KOIZUMI GO TO HELL」という叫びは、特に小泉首相に思い入れはないですが、不快でした。彼らの「靖国神社への高砂族合祀反対」の主張が、どこをどう間違えば「地獄へ行け」にまで発展するのか。「高砂義勇隊は皇民化教育で二度殺された」と主張していた高金素梅氏の主張らしからぬ行動だと感じました。あの集団が国連ビル前で抗議するための資金や訴訟費用は一体どこから出ているのかも気になりました。「良識ある漢族」が支えているのでしょうか。

 まとめ。何故か唐突に米国批判が出てくる。現代のもう一つの覇権主義国家である中華人民共和国、中国共産党の名が一切出てこない。中国共産党と時に緊張関係に立つ国家ばかりが批判されている。社会主義を賛美しているにもかかわらず、台湾の隣にある中華人民共和国における社会主義の現実については語られない。以上、僕の感想です。


【追記】
 kusukusuさんのblogはTBが出来ないようなので、追記形式でリンクを貼っておきます。jingさんのblogはTB条件が文中リンクのようなので、こちらも追記形式ですがリンクを貼っておきます。

2006/06/29
地球が回ればフィルムも回る:『出草之歌』
2006/07/04
地球が回ればフィルムも回る:『出草之歌』に関連して丁寧な反論を頂きました!

2006/06/24
自知之明:24日より《出草之歌〜ある台湾原住民の吶喊 背山一戦》
2006/07/08
自知之明:《出草之歌〜ある台湾原住民の吶喊 背山一戦》 
posted by ねこめ〜わく at 00:31| Comment(23) | TrackBack(3) | 事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月23日

ワールド・カップ雑感

 先日のサッカー・ワールドカップ、残念でした。

「日本はアジアの中で着実にレベルを上げてきた」と思っておりましたが、世界とのレベルの差はまだまだ大きいようですね。

 多くのサポーターが「前回より日本が強くなっている」と信じていたことと思います。「実力で本大会出場を狙える」と。

 世界最強チームとの戦い、おまけに条件がえらく厳しい最終戦まで、早朝とは思えない視聴率でした。

 素人が言っても何の説得力も持ちませんが、日本は着実に強くなっていると思います。大きく水を空けられたように見えるのは、サポーターの期待値が高くなってきていること、世界とのレベル差が具体的に解るようになったこと(それくらいにはレベルが上がった)を示すものでは無いでしょうか?

 前回は開催国だったので、アドバンテージがありました。

 こういう場合、マスメディアは基本的に煽るものです。どこの国のメディアも「自国が本戦に出場できる」と口にすることでしょう。でも、それらのことは、度が過ぎなければ問題の無いことです。実際のことは戦わなければ解りません。

 また、送り出したサムライを信じずに、彼らの成功の果実だけ享受するなんてありえない。僕たちにできることは、彼らの信じ、応援することだけです。

  ただ、マスメディアの実際以上の煽りの部分に過敏に反応することは、やっぱり、問題です。流れてくる情報には必ずベクトルがあり、マスメディアがいくら客観的になろうとしたとしても、取捨選択の時点で、バイアスはかかってしまう。さらに、彼らには視聴率という足かせがあります。間を置いて捉えることも時には必要かと。

 信じることは大切です。けれど、絶対なんて存在しません。勝つことを当然と思って、八つ当たりなんて格好悪い。本当のサポーターなら、この苦い現状を認識し、これからの彼らを見守っていくことでしょう。

 中田選手が言った「今日出た実力が今の実力」なのです。


 柳沢選手だってわざとやった訳じゃないのです。

 水をぶっかけたり、卵を投げつけたりしないで欲しいものだと思います。 彼らが一番、悔しいのですから。
 http://www.youtube.com/watch?v=gp1MqPG8M30&eurl=
posted by ねこめ〜わく at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月11日

村上世彰代表緊急記者会見テキスト起こし

 時機を失した感もありますが、質疑応答に至るまでの25分15秒までの村上世彰氏の記者会見内容をテキスト起こししたのでUPします。日本の証券市場を揺るがした一大事件の中心にいた村上氏が記者会見で何を言ったのか、気になる方は一読してみて下さい。質疑応答後のやりとりは記者の声が聞き取りにくかったので、そちらはテキスト起こししていません。なお、読み易さのために話し出す際の「え」や「えー」という言葉は無視しました。句読点や改行はこちらで付けました。誤字・脱字などありましたら、ご指摘下さい。



村上世彰代表緊急記者会見

【司会】

 それでは幹事のお許しが出ましたので、ただいまより村上世彰の会見を始めさせて頂きます。どうぞ宜しくお願い致します。


【村上世彰】

 村上でございます。今回このような場に、多くの方にお集まり頂きまして、本当に申し訳ございません。今日、今、ニッポン放送のインサイダー問題というものが、話がありますので、そのお話をきちっとさせて頂いて、かつ、阪急さんと阪神の問題、かつ、あと、当社のファンドその他のお話をさせて頂ければと思っています。

 まず冒頭、今回のインサイダーの問題について、多大な、皆様にご迷惑をおかけしたことを、心から深くお詫び申し上げたいと思います。申し訳ございません。

 ただ、きちっと中身の話もするのが私の筋だと思っております。今日、本当に、こういう場で、逆に皆様、もの凄く取材がし難い状況だったかもしれません。私、今日、この場をもって東京証券取引所の会見というものは、最後にしたいというふうに自分の心の中で決めて参りましたので、やはり僕が、一生懸命ありうべき姿を追求しようと思っていた証券取引所のこの兜クラブで、皆様にお話をさせてもらうのがいいのではないかという無理をお願いして、今日、ちょっと場が引ける前に来ちゃいましたけれども、場が、前場が引けた後に、11時に設定させて頂いて、このような所でですね、皆様、本当に、ちょっと取材しにくい場所になっちゃったかもしれませんけれども、これも私の方から深くお詫び申し上げて、これ僕の我儘でございます。この場で是非、お話をすることが私の責務だろうと、それから皆様にもですね、取材の時に「やめてくれ」「道路ではやめてくれ」と申し上げてたけれども、やはり、今日この場では、きちっと皆様のご質問をお受けして、もしくは、皆様のご批判もお受けして、答えるのが私がやってきた責務ではないかというふうに、昨日、自分の中で考え、今日この場を設定させて頂いておりますので、誠心誠意、皆様からのご質問、皆様からのご意見、お答えして参りたいと思いますので、2、30分の間、私のお話を聞いて頂きまして、かつ、皆様のご質問、その後お受けさせて頂こうと思います。どうぞ宜しくお願い致します。

 ここで大丈夫ですか。テレビの方、大丈夫ですか。じゃあ、話を始めさせて頂きたいと思います。


 先ず、今回の事件についてインサイダー疑惑ということで報道がされてますが、一体何をおっしゃっているのかというのは、最初、私にとっても寝耳に水っていうか、何が僕達が、そんな疑惑に絡むんだろうというのは、全く何のことをおっしゃっているか解りませんでした。ただ、途中で、色々、5月の中旬ぐらいから、検察の方、もしくは取調べ、もしくは証券会社に調査に入られたことを聞くと、どうもライブドアの方々が、2004年の後半、年末にかけて、私どもの所に、「ニッポン放送が欲しいんだ」「ニッポン放送いいな」ということを、お話になったのが、私にとって、私どもにとってのインサイダーじゃないかという、そういう疑念でありました。僕は、本当に何を言っているか、最初、解らなかった。なぜならば、私どもは、ライブドアさんが一杯買いたいからニッポン放送の株を買っていた訳ではありません。これは検察も完全に認めて頂いてます。僕達は当時、フジテレビ・ニッポン放送間の資本政策を如何にしたら直せるか、それについては私どもが、ある程度の議決権を持って、ありうべき姿をきちんと株主として、申し上げていくのがいいのではないか。ただ、その点について、私は2004年の後半、一生懸命やってました。そして、2004年の1月17日、フジテレビが100%公開買い付けをして頂いた時、私は本当に涙が出るほど嬉しかった。日枝さんにその場で電話をして「本当にありがとうございます」と。4時だったです。憶えてます。「本当にありがとうございます」と、電話をしたのを憶えてます。

 ただ、時系列的に申し上げますと、9月の15日に、私が堀江さんと宮内さん、ライブドアの堀江さんと宮内さんにお会いして、「ニッポン放送さんはいいよ」と「僕が一生懸命こうやって株を買うから、貴方も少し買ってくれると嬉しいな」と。要するに、自分の考えに共鳴してくれる人が、少しでも株を持ってくれると嬉しかった。そういう状況でありました。それに対して、ライブドア側からですね、11月8日に、宮内さん、堀江さん、それ以外の方も数名いらっしゃって、「いや〜、村上さんいいですね、欲しいですね、経営権取得できたらいいですね、僕らも一杯お金ちゃんと準備しますから、どうですかね」というようなお話がありました。こんな失礼なことを言ってはいけないかもしれませんけれども、やはり、特に、宮内さん。僕、決して宮内さんのこと恨んではおりません。でも、やっぱり、こう「そら行け〜」「やれ行け〜」っていうタイプの方なんで「まぁ、あんまり実現可能性のある話をしてられないなぁ」と思って、全く自分の中では「へぇ〜、そんな欲しいんだ〜」「全部欲しいんだ〜」っていうことで頭の中にありました。それで、そっから2ヶ月間、そのアプローチはありませんでした。

 その後、1月6日に堀江さん、宮内さん、その他の財務関係の方がいらっしゃって、「もし、ニッポン放送を公開買い付けすると如何ですか、村上さん協力して頂けますか」というお話が1月6日にありましたんで、「貴方達にそんなことできるの?」と。「僕はもう既に18.何%を持ってるから、1%でも2%でもいいから買ってくれれば、本当にフジテレビがニッポン放送の資本政策を見直せなかった時、一緒に株主として考えて、そして、その結果、コンテンツとして利用して、利用できるものについてあれば、一緒に考えようよ」「でもね、村上さん、経営権が欲しいんですよね」っていうのは、確かに彼らは言ってました。そういうふうに。これが今回の疑惑なんです。実は私は、1月の後半にかけて、ニッポン放送の株は大量に、堀江さんたちが発表する前にもう売り払っていたんです。大量にっていうか、まぁ、そんな大量でもないですけど、数十万、あの、何万株というオーダーで売ってたんですけれども、それは、1月28日の時点からはですね、それ以降もうち売ったり買ったりしてたんですけれども、1月28日の時点に、熊谷さんから、ライブドアの熊谷さんから当時電話があってですね、「外人の持っている人達の状況を、あの、教えてくれませんか」ということを、「やっぱり、場合によっては外人の株を買いたいんです」連絡あったので、1月18日以降、私どもはライブドアの株をストックしました。これは、うちのインサイダーマニュアルチェック、コンプライアンスチェックにおいて、ライブドアの株をストックしました。

 ただ、今回、検察当局がおっしゃるには、「村上さんはライブドアがどこまで本気で、一生懸命買うか、絶対にニッポン放送を買うかは別にして、11月8日に宮内さんが『行きましょうよ』と声かけたでしょ」と。「1月6日に『もしできたら公開買い付けしたいんですけど』と言ったでしょ」と。「それを聞くのが」、これもの凄く難しいんで、後で自分自身の紙をですね、僕の個人の名前でホームページにアップしとこうと思いますんで、それをご参考にして頂ければいいと思うんですけれども、「それが5%以上買い集めることについての準備に当たるんです」と。「そんな馬鹿な」と当初は僕も思いました。そんなことで僕は株を買っていたのではない。それは検察当局も、僕が一生懸命、例えば、もしフジテレビがそうならなかった時、来年の株主総会に向けて、どういう取締役構成になるのか。当時は自民党の方も、民主党の方も一人ずつ入って頂いて、「ある意味で放送局っていうのはフェアにできることはないか」っていうことまで言って、取締役をお願いしてたんです。その時にあんまりライブドアの話は頭になかったんです。ただ、2日間、僕、検察当局とガンガンやり合いました。

 ただ、検察当局のロジックもあるんです。「村上さんは、そのライブドアの動きを元に儲けようと思ったんじゃないけれども、宮内さんが『そら行け〜、やれ行け〜、ニッポン放送だ』って言うのを聞いちゃったでしょ」と。聞いちゃったと言われれば、聞いちゃっているんですよね。で、それを本当に、この証取法の167条や168条にかかるんだろうか、と。自分の中でも何回も何回も繰り返し、考えてみました。ただ、構成要件っていう、これ私も法律をやってきた人間です。構成要件っていうことを考えると、かかるかもしれないし、かからないかもしれない。裁判で争って、絶対にかからないということもありますが、これは裁判上の解釈の問題だけなんです。法律の解釈の問題だけなんです。それに基づいて、うちのファンド、もしくは、うちがやってきたこと、これが2年間、たぶん裁判になれば2年間になります。2年間かけてですね、ずっと争い続けることが、僕が大切にしてきたオフィスとか、自分の一緒に働いている人とか、そういう方々にとって、もしくは、僕に期待して投資をして頂いてくれているファンドの方にとって、僕が泥塗れになりながら、2年間訴訟闘争をやることが、本当にいいのかどうか。これを自分の中で数日間考えました。その結果、昨日に至って、私は「検事さんのおっしゃる通り、それも構成要件の一つかもしれない」と。

 事実、11月8日、宮内さんが「やりましょうよ」っていう、宮内さんこうやって最後バタっとこう机にやって、「宜しくお願いします」と頭を下げられるんですよね。それ、確かにあった。あの宮内さんのポーズって、やっぱり僕、絵が頭の中に残るもんですから、確かにあったんで、それをやられたのは1月6日です。私どもは決して、そのライブドアがそうやることによって株を儲けようと思ったのではない。これは調書にも書いてあります。そうではない、と。「しかし、貴方は知ってしまった」。私は悩みました。私は、この証券市場の中で、プロ中のプロと自分を自認しております。プロ中のプロが、そういう法律を、万が一でも、犯していいものかどうか。それについて自分の中で悩んだ結果ですね、これはやっぱり自分にとってもミステイクがある、と。俺はミステイクはない、俺は知らないっていうよりも、やっぱり、その自分が把握しなかったこと、自分が本当に買いたいと思って、たまたま堀江さんがそう言ったとしても、それは私がやってきたフェアネスの中で、止めなきゃいけなかったことではないか、というふうに自分の中で思い至りまして、私の方から「検事さんのおっしゃる通りかもしれない」と、そうであれば、これは私がプロ中のプロとして、認識が甘かったものについては、私自身が罪を認め、私自身がそれを甘んじて受けるのが、これは私のやるべきことではないか、というふうに判断を致しました。

 ということで、昨日の夜、私は検事さんの調書に、その部分について、サインをしました。その部分について、サインをしたということは、私は証取法の167条に基づくものについて、5%以上買い進めることの準備を、知って買った訳じゃないんです、聞いちゃってるっていうことなんですね。自分の中では、これ本当に、「罪を認めた人間が、お前、それでいいのか」って言われるかもしれませんが、自分の中では本当に、その感覚がなかった。感覚がなかったんだけれども、現実問題やったことについては、これは自分自身、罪を認め、反省をする必要はある。これは自分の生き方に、そうしなきゃ反する。ということで、昨日、私はその調書にサインをしましたので、私自身が起訴されることは、ほぼ間違いがない、というふうに思っています。それがどのようなやり方になるのか、これは検察当局のお考え次第でございますんで、これにつきましては、きちんと言われた通りやっていくのが僕の務めかなぁというふうに思います。この件、私自身がですね、やはり、残念ながら、罪を犯そうという訳じゃなかったけれども、聞いてしまったということについてですね、この証取法、自分がプロ中のプロであると思っていた人間がですね、犯してしまったこと、本当に深くお詫び申し上げます。申し訳ございませんでした。でも、それは仕方がない。仕方がないことはやっぱり自分で認める。これはやっぱり自分の生き方にもそう思いますんで、ただ、後で、自分が考えていたこと、これも皆様に少し、お話をして、させて頂くチャンスを、与えて頂きたく思います。


 二つ目であります。阪神・阪急の問題について、お話をさせて頂きたいと思います。昨年の10月以降、阪神の株を、大量に取得をさせて頂きました。その当初から、私は「私鉄同士の再編はないのか」ということを、ずっと言って参りました。これは丁度、さっきのライブドアと同じ時期、私は堤義明さんにお目にかかり、西武鉄道というものを買いたかった。ファイナンスも一生懸命つけてた。そういう意味で、その時に西武鉄道の問題を徹底して勉強した結果、「いや、阪神はいいな」ということを思いつき、阪神電鉄の株について買うことを検討した訳であります。そして、私自身、中学校・高校時代、阪神電鉄をずっと利用さして頂きまして、非常に安全性にも長けた、いい会社だと思ってました。ただ、「こんな短い会社でいいのかなぁ」と「色んなとこと提携がないのかなぁ」と。私自身が最初にご提案を申し上げたのは、京阪・近鉄でございます。近鉄とは、路線が繋がる。京阪とは、中ノ島から西九条の間、僅か数キロ繋がれば、一挙に京都から姫路まで行ける。そういう状況の中でご提案申し上げました。その間、阪神さんも年明け以降、真剣に検討頂き、当初は京阪、そして阪急ということがありました。

 ただ、最後に阪急に会った時に、私自身の気持ちの中にあったのは、あまりに拙速ではないかと、本当に京阪じゃなくて阪急がいいのか、それ以外の選択肢はないのかということについて、私自身、「ちょっとこれは拙速かな」というふうな思いがあり、激しく、四月の末以降、交渉をして参りました。後でこれは、阪急の経営者の方、もしくはアドバイザーの方、阪神の経営者、アドバイザーの方にお聞き頂ければいいと思いますけれども、単に価格交渉をしていたのではなくて、阪急、京阪がどのように統合するか、どうなるべきか、それ以外の選択肢はないのか、そういうことを真剣に検討をしていた訳であります。本当はもっと検討したいという気持ちもあります。しかし、今回、このような状況に至り、当方のファンドも色々考え、しかも、阪神さんと阪急さんが日本で初めて私鉄の大再編をやって頂くということでありますので、この統合に向けて、当方は最大限の、出来る限りの協力、ファンドの株を、阪急さんのTOBに基本的には応じるという方向で検討したく、その結果、当方が提案しておりました、株主提案その他につきましては、本日をもって提案を取り下げるということに致しました。

 ただ、残念なのは、こんな中でこんなことを言うのはあれかもしれませんけれども、阪急さんの統合効果というのは、未だに僕はよく解らない。本当は、阪急さんにずっとお願いしていたのは「統合したらここまで良くなる、ここまで良くなるから、それをコミットメントに挙げる、そのコミットメントが実現しなかったら、会社のトップとして辞めるということを盛り込んでくれ」というのをずっと言ってた。でも、これは実現しなかった。で、それを未だに言ってたけれども、残念ながら今回こういう話があり、自分として責任を取らなければいけない。ファンドとしても、どういうやり方が一番いいのかと考えた結果、阪急さんの公開買い付けに基本的に応じるということを決めました。ただ、私どもはもう殆ど株主でなくなるかもしれないけれども、一時期、本当に阪神の株を大量取得させて頂いた人間としては、いつか数年経って「統合してて良かったな」と言って頂けると、非常に嬉しいなというふうに思う訳であります。


 三つ目でございますけれども、私どものファンドおよび私自身の今後の身の振り方ということについて、お話をしたいと思います。私、この世界に7年前に、役所を辞めて飛び込みまして、皆さんにどんな言い方をされようと、やっぱり、この株式市場を真っ当にし、生きていく人間というふうに思ってます。それは今回の件でどんなご批判を受けても構わない。それは僕が悪い。ルールを犯した訳ですから。その私が、この証取法という、証券取引の憲法というような法律を、犯してしまった以上、この世界に私が引き続きいるのは、私はやっぱりおかしいと思う。ということで、私は、基本的に、今日をもってこの世界からは身を引くというふうに考えた訳であります。ただ、皆様に対するお願い事、もしくは私どもを可愛がって頂いた人に対するお願い事としては、私、結構、自分を頼ってくれる人間を、一杯、自分の組織の中に集めました。もの凄く優秀な人間もいる。それから、やっぱり自分が唱えていたコーポレートガバナンスというものに共鳴して、集まってくれた人間は一杯いる。私にとっては、そういう人達ってのは、凄く凄く自分にとって大切な方。もしくはプレスの方でも、自分と同じ考えを持って、やっぱりありうべき株式市場の姿を追求して頂いた方は一杯いる。それから私の所にですね、野村證券の方、もしくは日興シティーの方を中心に、一杯、僕の考え方に共鳴してくれて、M&Aの世界の方が、結構、十数人集まってくれている。で、私はこの自分が考えた世界の人達にはですね、引き続き頑張ってやって欲しいという気持ちを凄く強く持ってます。

 私は、今日、この場で身を引こうと思いますし、どういう手続ができるか判りませんけれども、私の持っていた会社は、もし、うちの従業員達が引き続きやって頂けるということであれば、株も含めて全部譲る、というふうに思っています。それから、一部報道でもありましたけれども、ファンドについては、当面、私自身はもうファンドからは身を去る訳でありますけれども、一部の主要人物はきっちり残って頂けると思ってますので、その者を中心に、さらにシンガポールに拠点を移しておりますので、そこで証券、証券の売買ということができますので、中心にやっていければなぁ、と思っています。そういう意味では阪神さんに助けられたって言いますか、うちのファンド、たぶん阪神の株を売ることによって、まぁ、1800億ぐらいの、たぶん、1800億ぐらいのお金が入ってきますので、たぶん、うちのファンド自体はもう、現在、ファンドとしては本当に情けないことに、キャッシュマウンテンのファンドになってしまうと思います。それ以後、今年もマーケットが良かったので、あんまりお金を使っていないこともありましたから、4000億のうちの2/3ぐらいは現金であると思うので、今これ、内部で相談しておりますけれども、「今回、お前がこんな罪を犯したから、俺はもう出て行くんだ」という投資家の方がいたら、私、どういうふうに罪を償えばいいのか、ちょっと現在のところ判りませんが、罪を償っている途中、もしくは、罪を償い終えた後でもですね、私はもうファンドに携わる者ではありませんが、ファンドに入れて頂いた方には一軒一軒、自分のやってきたことを、もしくは、今後、若い人達を中心に、どういうふうにファンドを運営していくかということをご説明に上がって、引き続き、もう村上っていう名は二度と出ないと思いますけれども、そのファンドにお金を預け、そして、皆さんにも結構、怒られました。「お前が7年前に言ってきたことと違うじゃないか」と。「一杯儲けるだけじゃないか」、かもしれない。でも、やっぱりコーポレートガバナンスっていうことを、僕は最初っから要望してきた訳ですから、そのコーポレートガバナンスの僕の志を継いでやって頂ける人達に、引き続き、お金集めて、お金を運用させて頂いて、この国の企業の在り方を、私を信頼して頂いた若い人に託したい、というのが私の気持ちであります。

 私は、罪を犯してしまった。プロ中のプロとして、憲法を破ってしまった。私はきちっと身を引こうと思います。ただ、うちの会社の人間は、そんなこと、宮内さんが言ったようなこと、誰も聞いてない。それで、組織が滅びるというのは、自分としては許し難いことでありますので、これは、うちの従業員の皆にもきちっと謝って、引き続き、僕がいなくなっても、やって欲しいという気持ちを伝え、勿論、僕がいなくなった後、どこまでできるか判りません。ただ、M&Aの世界では、今でも数件、アドバイザーの仕事を請け負ってます。僕がいなくともできる。それから、トレーディングの仕事もシンガポールで、僕がいなくてもできる。それを僕は引き継いで欲しいな、というのが私の気持ちであります。自分自身は、このように罪を償わなければならない身になりましたけれども、何とか皆様にもご理解を頂いて、名前も当社変わっちゃうかもしれませんけれども、ある意味でコーポレートガバナンスをきちんと実行するファンドであり、かつ、色んな企業の再編に関与できる、M&Aのアドバイザーもできる会社、それが日本に残りますから、ご支援頂けるとありがたいと思います。以上でございます。ありがとうございました。

【25:15】
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2006年06月09日

ハーヴェイ・ミルク

ハーヴェイ・ミルク   DVDあり

 ネット上に、この事件の詳細が書かれたサイトがなかったので、映画の詳細を書き起こすことにする。以下、映画のネタバレおよび補足が含まれています。

 ハーヴェイ・ミルクは、1930年5月22日にユダヤ人の中流階級に生まれ、ニューヨーク州ロングアイランド島のウッドメアで育つ。14歳の頃に同性愛を自覚する。大学卒業後は海軍に入隊、その後、ウォール街の証券アナリストになるが、60年代にはブロードウェイで芝居製作の仕事に就く。70年代には反戦デモに参加し、サンフランシスコに転居してからは、カストロ地区で恋人のスコットとカメラ店を経営する。この頃から市民運動を始める。73〜76年にかけて、サンフランシスコ市政執行委員選挙に3度出馬し、そのたびに得票数を増やすものの、全て落選に終わる。

 1975年、サンフランシスコ市の総合的発展と多文化・他民族共生を掲げるジョージ・マスコーニが新市長に就任する。マスコーニはサンクエンティン刑務所(注1)で看守を務める父から、死刑執行が電気イスによってなされていることを知り、残虐刑に反対していた人物。彼は市政執行委員選挙を、市全体ではなく各地区ごとに市政委員を選ぶ地区別選挙とする改正する。カストロ地区にゲイが集まる。


(注1)なお、サンクエンティン刑務所といえば、サンフランシスコ市内のストリートギャング団「クリップス」の創設者であるスタンリー・“トーキー”・ウィリアムズの死刑が執行された刑務所でもある。
Stanley Williams – Wikipedia(英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Stanley_Williams
 ウィリアムズは、1979年のセブンイレブンでのアルバート・オーウェンズ強盗殺人容疑、同年のモーテルでの台湾系移民イェン・ヤン夫妻と娘の強盗殺人容疑で、2年後に死刑判決を受ける。その後、スタンリーは24年間の囚人生活において、自身の経験を元に非暴力を訴え、反ギャング運動を展開。「クリップス」創設を謝罪、児童書9冊を執筆する。これらの社会的貢献によってノーベル平和賞に4回、同文学賞に3回ノミネートされている。アノールド・シュワルツェネッガー市長に対して死刑執行停止の嘆願が幾つも出され、その判断に注目が集まるものの、温情的措置は認められず、2005年12月13日に死刑が執行される。


 ハーヴェイ・ミルクは1977年にカストロ地区から4度目の出馬をし、ゲイでは初めての市政執行委員になる。この地区別選挙では、ミルクの他にも女権擁護運動家や中国系アメリカ人、黒人女性、そしてダン・ホワイト(ダニエル・ジェームズ・ホワイト)も当選した。ホワイトは収入の安定している消防署を辞めて出馬した、保守的な価値観を持った31歳の白人で、犯罪や教育、税金などの問題に熱心で、地区のスポーツ大会を企画した。

 ミルクは、黒人、黄色人種、同性愛者、障害者、その他のマイノリティーの団結を訴え、開発制限、学校教育、交通機関、老人福祉などの問題で市政改革を訴えた。ペットの糞の不始末に罰金を課す条例、英語の書けない移民の為に投票器の設置を義務付ける条例、ゲイであることをカミングアウトしたことで職を奪われないための条例など、具体的な施策も打ち出した。

 ゲイ権利法案は、ホワイトを除く11人の市政執行委員の賛成で成立。祝賀のゲイ・パレードが開かれ、全米から40万人の同性愛者やその友人が集まった。ホワイトはパレードで裸になる同性愛者を批判、全米でも同様の反対運動が起こり、78年にはゲイ権利法は全米で撤回されることになった。

 カリフォルニア州では、同性愛者の教師を教育現場から追放する提案6号が州民投票にかけられることになり、同性愛者と異性愛者の議論が活発化した。当初は賛成派が多数であったが、投票一ヶ月前には反対派が僅差にまで詰め寄った。提案6号が人権侵害に当たるとして反対する人の中には、ロナルド・レーガン前知事やダン・ホワイトの名前もあった。1978年11月7日、提案6号は59対41の割合で否決された。


 4日後、支援者に何の相談をすることもなく、ホワイトは執行委員を辞職した。その後、ホワイトは支援者と話し合い、市政委員への復帰へと考えを改めたが、辞表は既に受理された後で撤回不可能となっていた。新委員の任命はマスコーニ市長の裁量であり、彼は支持者への配慮が欠けていたホワイトを批判した。選挙区住民にとって如何なる判断が最良かが、市長の一番の関心であった。ミルクはホワイトの再任に猛反対した。ホワイトとその支援者は、市長に対して、市政委員復帰の嘆願を行った。

 1978年11月18日、南米のガイアナ協同共和国西部で、ジム・ウォレン・ジョーンズが主催するアメリカ発祥のキリスト教系カルト集団「人民寺院」による集団自殺が起こった(注2)。約900人に及ぶ自殺者の多くがサンフランシスコ市民だったため、市民の関心はホワイトの嘆願から、この事件へと移っていった。


(注2)人民寺院とジム・ウォレン・ジョーンズの人生については以下を参照のこと。
http://www.nazoo.org/cult/jimjones.htm
http://www.nazoo.org/cult/jimjones2.htm


 1978年11月27日、サンフランシスコ市長ジョージ・マスコーニと市政執行委員ハーヴェイ・ミルクが市庁舎内で暗殺された。容疑者はダン・ホワイト。ホワイトの後任の市政執行委員が発表された日だった。

 10時45分、再任されないと知ったホワイトは市長室へ行き、短い口論の後に拳銃でマスコーニを撃った。倒れたマスコーニの頭に、さらに2発撃ち込んだ。弾を詰め直して、市庁舎の反対側にあるミルクの部屋に行き、ミルクを撃った。倒れたミルクに3発撃ち込み、さらに屈み込んで頭部に1発撃った。11時10分。

 夜、キャンドルを持った市民による長蛇の行進が大通りを埋めた。カストロ地区から市庁舎まで、ハーヴェイ・ミルクとジョージ・マスコーニの追悼で埋められた。


 取調べにおいて、ミルクとマスコーニの殺害理由は明らかにならなかった。隣人達の証言では、ホワイトは模範的青年で、家庭的で、教会にも熱心に通っていたとのことだった。5ヶ月後、ダン・ホワイト裁判が開廷した。しかし、陪審員はゲイやマイノリティーからは選ばれなかった。

 検察は、ミルクとマスコーニの殺害動機は復讐であるとし、殺人の立証を行った。弁護人は被疑事実を冒頭陳述で認めた。だが、検察が証拠として提出した自白テープは裏目に出た。ホワイトは、仕事上の金銭問題や家族と過ごす時間がないことから、苦しみ、プレッシャーを感じていた。息子はベビーシッター任せ、妻のメリー・アンは働き過ぎ、市長は結論を出す前に電話をすると言ったのに電話してこない。市長に再任を求めに行くも、その意思がないことを聞き、カッとなって銃を撃った。次に、ハーヴェイ・ミルクのことを思い出し、ミルクが再任されないことを知っていて、残念だと言いたげにニヤニヤしていたのを見て、カッとなって銃を撃った。ホワイトはすすり泣きながら語った。それを聴いて、陪審員はホワイトに同情して、泣いた。

 死刑判決が下るには殺人の故意を立証しなければならず、回避するためにはその不在を立証しなければならない。検察側は、ホワイトの拳銃と10個の予備弾の所持、探知機の付いていない裏窓からの市庁舎への侵入、を殺意と計画性の証拠とした。一方、弁護側は、裏窓からの侵入はよくある入り方で、拳銃は護身用で、しかも他の執行委員も所持していると主張、予備弾の所持は彼が元警官で、弾を再装填したのは本能的にそうしたのだろう、と説明した。また、ホワイトは政治の腐敗を嫌う理想主義者で、市の荒廃を憂えていた、と説明された。

 さらに弁護人は「良い環境にいる善良な人は冷酷に人を殺さない」と陪審員に語った。弁護側証人でホワイトの妻メリー・アンは、夫がプレッシャーに潰されていたと証言し、弁護側の精神分析医は、被告人がジャンクフードの摂り過ぎで過度の落ち込み状態にあったと証言した。弁護人は、犯行は一時の感情に駆られてのものだと主張した。

 裁判は11日で結審し、評決は故殺について有罪。銃使用に対して刑が加算されても懲役4〜12年で、仮釈放の可能性もあるという内容。その夜、市庁舎前で大規模な抗議デモが起こり、一部は暴徒化して警官隊と衝突した。

 1984年1月7日、ダン・ホワイトは出所した。5年半の服役期間中、精神科の治療はなかったという。

 1985年10月21日、ダン・ホワイト、車中でガス自殺。



 映画の中で、ホワイトは理想主義者と解説されている。彼には議会での話し合いが妥協と映ったのだろう。議会で自身の主張が通らないのみならず、消防署を退職して市政執行委員に当選したことで生活レベルの維持が困難になったこと、多忙で家庭との両立が難しくなり彼の理想の家庭生活と乖離していったこと、などが彼を追い詰めたのだろう。

 しかし、いずれにしても、自身に投票した支援者と協議することなく、選挙民に説明することなく辞職することは、公人としての意識の低さを示している。そのことは、直後に支援者に説得されて委員復帰に考えを改める点にも表れている。公人としての出処進退の決定が軽率になされている。既に受理された辞表が嘆願によって覆ると期待していたこと、再任要求の嘆願が叶わないと知ると凶行へ走ること、など身勝手さが目に余る。

 マイノリティーの抗議デモが一部暴徒化するシーンがあり、それがまた偏見を助長させる結果になったのかもしない。おそらく、ミルクやマスコーニも暴動は望んでいないことだろう。しかし、二人が殺害された時にはデモ行進のみで暴動は起こらなかったことを考えると、この暴動はダン・ホワイト裁判の不当性が引き金になったと見るべきだろう。暴動が正当化される訳ではないが、不当な裁判に対して市民の側だけに遵法精神を求めるのも酷であり、この裁判が社会に与えた影響は大きい。

 一つ気になることがある。この映画は公開されたのは、丁度ダン・ホワイトが釈放された年であり、彼がガス自殺する一年前のことである。製作者側は釈放時期に合わせて映画を撮影したのかもしれない。製作:ロバート・エプスタイン&リチャード・シュミーセン。

 州側はホワイトへの報復を考慮して、ロサンゼルス市へと移送するが、ホワイトは市長の決定を無視して、サンフランシスコ市の自宅へ帰った。

Dan White - Wikipedia(英語版)
http://en.wikipedia.org/wiki/Dan_White
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2006年05月23日

さらば映画秘宝  思想から遠く離れて

 今月の映画秘宝の7ページに「出草之歌」という映画が紹介されている。この映画は、台湾人戦没者の靖国合祀反対運動をしている台湾人女性を取り上げた音楽ドキュメンタリー映画。


「出草之歌」 公式Webサイト
http://headhunters.ddo.jp/HeadHunters02.files/frame.htm


(注1)以下、映画秘宝記事について引用する箇所は赤字で、それ以外からの引用は青字で示す。なお、赤字箇所の太字は、映画秘宝編集者による強調部分をそのまま再現している。


 映画の内容についてはともかく、田野辺尚人編集長の“リアル首チョンパ映画の超問題作『出草之歌』”という記事は、恣意性が強い。田野辺氏は、この映画に登場する台湾原住民族・高砂族を説明するに当たって霧社事件を紹介しているが、霧社事件は台湾人戦没者の靖国合祀反対運動と混ぜて書くべき事柄なのだろうか。


 その手法は、霧社事件を紹介することで首狩り族としての高砂族を説明し、民族音楽学者の小泉文夫氏による『首狩り族は得てして音楽も優れている』という言葉を引用することで、本映画における高砂族の音楽ドキュメンタリーとしての側面と結び付け、本映画の内容である台湾人戦没者の靖国合祀反対運動の案内とするものである。果たして、台湾人戦没者の靖国合祀反対運動をテーマにした映画を紹介するに当たって、霧社事件や小泉文夫氏の言葉を紹介する必要があるのだろうか。


(注2)なお、故・小泉文夫氏がどういう文脈で首狩り族について語ったのかについては、以下のサイトが参考になる。田野辺氏の引用の仕方とは随分違った印象を受ける。

礼聖歌研究工房アトリエおおましこ:祈りを歌う
http://www16.plala.or.jp/omasico/page006.html


 しかも、『ホウ・シャオシェンの映画などでは、日本の植民地時代もそれなりにALWAYSだったんだ、三丁目の夕日も綺麗だと遠い目をするので、新しい教科書の印税で飯でも食おうとしている最近の歴史修正主義者の乞食根性を増長させているが、もちろん誇り高き一派は抗った』という映画とは何の関係もない誹謗中傷の一文もある。イデオロギー全開である。


 また、台湾人戦没者の靖国合祀反対運動をしている高砂族の台湾人女性(すなわち本映画の主人公)について、田野辺氏は詳しく触れていないが、『出草之歌』公式webサイトを見れば解るように、この女性は高金素梅氏である。以下、Wikipediaの高金素梅の項から引用する。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%87%91%E7%B4%A0%E6%A2%85

<引用開始>

 高金素梅(こうきん そばい/ガオジン・スーメイ、閩南語:Ko Kim Sò·-mûi, 1965年9月21日-)、タイヤル族名吉娃斯阿麗(チワスアリ)は台湾の元歌手・役者・司会者で、現在は中華民国立法委員で無所属。台湾人ながら北京の民族大学に留学。臺中縣和平郷谷關在住。芸能人時代には数々の不倫騒動から「誹聞天后」(スキャンダル・クイーン)のあだ名をマスコミに付けられた。父親は安徽省出身の外省人、母親は台湾原住民のタイヤル族である。かつては「金素梅」と名乗っていたが母親が原住民だったことから、当選しやすい原住民枠で選挙に出馬した経緯がある。

<引用終了>


 同項の政治主張の欄からも引用する。


<引用開始>

 反對軍購,反對「公投制憲」(兵器の購入に反対し、「公民投票による憲法制定」に反対する)

 経歴からもわかる通り親中反日。2005年には来日し、駐日中国大使館の報道官も「関心を寄せている」とコメントするなど、日本国内外の反靖国の政治勢力と連動して靖国神社を批判するパフォーマンスを行った。高金素梅のこのようなパフォーマンスの背景は国内ではほとんど報道されなかったが、台湾独立派の台湾の声などから批判された。

 またその後国連本部でも反日的パフォーマンスを行っている。

 高砂族義勇兵碑の撤去にも精力的に活動し、大日本帝国を賛美しているとして、記念碑以外を撤去させる事に成功した。

<引用終了>


 高金素梅氏の父親は安徽省出身の外省人、母親は台湾原住民のタイヤル族(高砂族は先住民族9部族の総称とのこと)ということなので、高砂族を名乗ること自体は間違いとはいえない。けれど、選挙に出馬するに際して母方の姓である「高」を名乗った経緯や中国大陸よりの政治主張を考えれば、高金素梅氏が高砂族および靖国神社に祀られている台湾人戦没者の遺族を代表する存在なのかどうか、大いに疑義がある。現に林建良氏が主催するメルマガ「台湾の声」も批判している。


「台湾の声」【論説】高金素梅の来日は台湾人を代表しない
http://sv3.inacs.jp/bn/?2005060034490320005291.3407


 にもかかわらず田野辺氏は記事をこう締めくくる。


<引用開始>

 そんな高砂族の元原住民部落工作隊の生き残りや遺族たちが、「俺たちは日本人じゃない! 名誉ある首狩り族だ! 祖先の霊を靖国神社から解放してくれ!」と九段下・日本武道館脇の神社に殴り込みをかける『出草之歌』は、この台湾最強の首狩り軍団怒りの鉄拳の記録だ。生首は転がらないけど必見の1作だ!

<引用終了>


 高金素梅氏は『高砂族の元原住民部落工作隊の生き残り』ではないから『遺族たち』の方だとしても、「高砂族」とは当時の日本側による先住民族9部族の総称である。仮に高金素梅氏はタイヤル族遺族の一部を代表するとしても、高砂族遺族のどれほどの意見を代表するものなのか。また、『高砂族の元原住民部落工作隊の生き残り』とは誰なのか。その『高砂族の元原住民部落工作隊の生き残り』は霧社事件に関与した高砂族なのかという疑問もある。


 また、Wikipediaの霧社事件の項によれば、事件の評価は中国国民党統治時代の抗日教育下と1990年以降の民主化過程で、その評価が異なるようである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%A7%E7%A4%BE%E4%BA%8B%E4%BB%B6


 『リアル首チョンパ映画』と評して霧社事件を引き合いに出してまで紹介した映画、その映画の登場人物が霧社事件と関係なかったら、ただのミスリード記事となるだろう。しかも、台湾人戦没者の靖国合祀問題における高金素梅氏側の主張を、高金素梅氏の名を伏せて紹介する手法は、誠実さとは程遠い。



 ところで、田野辺氏の記事によれば『高砂族の元原住民部落工作隊の生き残りや遺族たちが、「俺たちは日本人じゃない!名誉ある首狩り族だ!祖先の霊を靖国神社から解放してくれ!」と九段下・日本武道館脇の神社に殴り込みをかける』そうだが、これは元原住民部落工作隊の方々や遺族の方々が言っていることなのだろうか。


 当時の風習としてならともかく、彼らは現代においても自分達のことを『名誉ある首狩り族』だと語っているのだろうか。「名誉ある高砂族」と言うならともかく『名誉ある首狩り族』と主張するのだろうか?
現代でも、そう公言して憚らないなら、それでは戦士ではなく快楽殺人犯ではないか。或いは、台湾に愛着が無い者たちか。靖国神社に祀られていることを拒むのであれば、ただそれだけを主張すれば良いことであって、日本人のカテゴリーに属することを嫌うばかりに『名誉ある首狩り族』だと主張するのは何とも無理がある。これは本当に彼らが言ったことなのだろうか。田野辺氏の煽りなら随分と失礼な話である。



 田野辺氏といえば、直近では映画秘宝2006年3月号62〜63ページにおける、映画『ミュンヘン』の記事が印象的だった。イラク戦争を非難しながら、他方では『テロには常に大義・主張がある』とテロルを擁護していて、正直、偏りの激しい人だと思った。倫理的にはどちらの場面でも、関わって死ぬのは十中八九、民間人なのだから、大義があろうがなかろうが擁護する気にはなれない。


 彼のカラーが強くなってから損面の多様性は確実に失われた。ある時、町山智浩氏と柳下毅一郎氏が担当するファビュラス・バーカー・ボーイズのコーナーに田野辺編集長の注釈が付くようになった。町山・柳下両氏が歯に衣着せず話すから面白いのに、編集側のブレーキが見えた。そこあたりから、二人の掛け合いにも勢いが無くなってきたと思う。確かに、二人は、たくさんのものに噛み付いた(主に町山氏)。けれど、怒ってくる人たちにも伝える姿勢があった。それこそ、ペンで戦う評論家だと思った。


 政治的思想性には物凄い毒があって、自己に無批判な状況でいるとどんどん凝り固まってしまう。より言葉に慎重であるべき編集長が『歴史修正主義者』なんて口にしてはいけない。それは、自己に無批判な右派が使う「非国民」とのレッテル張りと同程度だから。


 映画秘宝には、純粋に映画のみを扱って欲しいけど。編集長には誰も楯突かないからね。悲しいけど、卒業かな。


【追記】
 7月4日の「Kusukusuさんへの返信」に続きます。
posted by ねこめ〜わく at 00:10| Comment(4) | TrackBack(1) | 事件 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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